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半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第7回

2012年3月23日(金)
小栗家住宅 <国指定登録文化財>

 江戸期から明治にかけての豪商小栗三郎家(三郎兵衛という時期もある)が
それである。道を挟んだ東側の小栗家から分家したといわれている。碧海郡に
小栗新田を開いたことでも知られる。現在旧店先を「半田市観光協会」が借用
しているが、平成16年、次の八つの部分に分けられて国指定登録文化財として
の指定を受けた。
 小栗家住宅主屋(明治3年築)、小栗家住宅表門(明治前期)、小栗家住宅
辰巳蔵(明治前期)、小栗家住宅書院(明治前期)、小栗家住宅茶室(明治期
前期)、小栗家住宅渡廊下(明治前期)、小栗家住宅北座敷(明治前期)、小
栗家住宅離れ(大正4年)。
 当家には数多くの話題が残されているが、今回はふたつの話題を紹介する。

(1)慶応3年、お札降りがあった
 慶応3年9月25日夜半に天照皇大神宮のお札、26日早朝には熱田神宮のお札が
更に数日後にもう一枚の降札があった。小栗家では目出度いことだと考えて早
速仮社殿を店に造り、御神酒、鏡餅を供えて10月3日頃までお祀りをしたところ、
近所だけでなく遠方からも多くの人々が昼夜を分かたず参詣に訪れた。小栗家
ではそれらの人々に夜は篝火を焚き酒を振る舞ったり、食事を出してもてなし
たりした。人々は酒に酔い神楽獅子や思い思いの芸で踊り続けるのであった。
有名なお札降りがあった家のひとつである。

(2)第一回陸海軍大演習前夜の参謀総長有栖川(ありすがわ)熾仁(たるひと)
親王殿下の宿舎
 明治23年3月30日夜、明日の半田町、亀崎町乙川での陸軍の演習に供えて、
参謀総長を務めた明治天皇の従兄弟君、有栖川(ありすがわ)熾仁(たるひと)
親王の宿舎となってのが小栗邸であった。有栖川宮は副官の川上繰六陸軍少将
を伴って宿泊した。小栗家では有栖川参謀総長には会議用の大部屋を含めて3部
屋を、川上少将には2部屋を提供すると共に、その他お付きの佐官5名、尉官4名
の全てに一部屋ずつ提供したというから、いくつ部屋あるのだろう。当時の御
当主小栗三郎兵衛氏は筆まめな方であったから、この出来事の詳細な記録をつ
けられた。その一つに殿下に差し上げた夕食の献立がある。献立も含めて抄録
する。

三月二十九日 朝曇 五十七度K

1,有栖川宮殿下 来宅
1,川上少将 小川大佐 川村大佐等到着
1,名古屋第一警察署巡査 島田藤市(警護)
1,夕めし献立
  皿 大鰻長焼  汁 白切身
  平 ソップ 鳥スキ丼
  ふき 小口人参煮
  御飯 切込玉子大巻 刺身
  吸物 むし

三月三十日
1,殿下献立
  向付 汁 平飯 切込 海苔
  刺身(黒鯛) 吸物 蒸し蛤
  みかん
1,川上少将 小川、川村大佐以下
  馬で武豊へ
  天皇に従うため弁当は(鳥肉入りゴモクメシ)握めし五つずつ竹皮包にて
  十五人前
1,芸妓 午後二時より午前一時まで

三月三十一日  朝 大雨 演習当日
1,殿下は 朝 牛乳 半じゅく玉子 家僕がつくる
1,陛下は午前十一時五十分 御還御
  御昼食の上 午後二時三十分 汽車で名古屋へ
1,殿下 頭巾を忘れ 名古屋より入電
  ズキン スグ ヲヲクリ タノム(以下略)


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◆◆◆3月は自殺対策月間です◆◆◆

2012年3月7日(水)
◆◆◆3月は自殺対策月間です◆◆◆
今この時も全国どこかで毎日80人ほどの方が自ら命を絶たれています。
半田市の自殺数も例外ではなく、交通事故で亡くなる方と比べると5〜6倍となっています。
【大切な人の変化に気付いてください】
身近な人の様子が、「いつもと違う」「最近元気がない」ということはありませんか。そんな時「どうしたの?」と声をかけてください。
大切な人を守る第一歩です。
気づいて、聴いて、そして相談窓口につなぐことが重要です。

自殺の原因は個人的、社会的な要因が複雑に関係しており、自殺に至るまでに多くの方が、うつ状態にあるかまたはうつ病を発症しているともいわれています。
■■■家族が気づきやすいうつ病のサイン■■■
○睡眠が十分にとれていない ○新聞やテレビを見なくなった ○食欲がない
○「だるい」「すっきりしない」などの身体症状を訴える ○飲酒量が増えた
○「仕事にいきたくない」「死にたい」と言うようになった ○口数が減る 
■■■職場の人が気づきやすいうつ病のサイン■■■
○元気がない ○笑わない ○口数が減る ○イライラしたり怒りっぽくなる ○ミスが増える ○作業能率が下がる ○遅刻・早退・欠勤が増える
☆保健センターでは随時相談をお受けしています。


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半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第6回

2012年2月24日(金)
半田運河(蔵の町の景観)

 現在では醸造蔵の黒色を穏やかな水面に映している半田運河には次のような
歴史がある。半田町の中心である下半田一帯は阿久比川の氾濫によって土が堆
積してできあがった土地からなり、近世以降に人々が住み始めて町が成立した
新興住宅地である。度重なる阿久比川の氾濫によって住宅への浸水や道路の泥
濘化に悩まされていた下半田の為政者の最大課題は「阿久比川の治水」という
ことであった。
 阿久比川改修の年代は明らかではないが、半田町史によると諸般の事情(半
田村浜新田・乙川葭野新田開拓等)から考えると万治(1658〜1660)・寛文
(1661〜1672)の頃、現在のように90度に屈曲させ衣ヶ浦へ流し、<別の説に、
元禄時代(1688〜1703) 小栗三郎左衛門、小栗七左衛門が山方新田を築造し
て阿久比川を東へ曲げたというのもある>、更に阿久比川や付属支流の悪水を
排除させるために十ヶ川を開削し、更に、上半田と岩滑村の悪水が十ヶ川に奔
注し排除が不可能となったので五番川を開削したといわれているが、半田運河
(船入江)が現在の姿になったのは次のような災害に遭遇し、下半田が大被害
を受けた事がきっかけとなっている。
 安政2年(1855)8月未曾有の大水害が発生した。洪水は白沢あたりから阿久
比川本流に沿って流下し、岩滑村内浜から下半田に流入して下半田全部が浸水
した。下町通り(富豪の集まる町)で床上3尺浸水という。十ヶ川、五番川の
堤防も各所で決壊しあふれた水は船入江に入り、内浜から来る激流と合わさっ
て坂登屋の酒蔵を倒すなど付近に大きな被害をもたらした。
 その損害が余りにも大きかったことから、それまで東進したり、山方新田の
中を流れていた十ヶ川と五番川の水を船入江に注ぎ込むと共に、船入江を拡張
して悪水排除をすべきだという意見が市井から起こった。当時、下半田に住ん
でいた庄屋三代目中野又左衛門は率先して上半田の山崎の地に住まいを移転す
ると同時に、災害の起きた8月中に船入江改修の出願を代官所へ提出した。
 当時の船入江の幅はわずか6、7間(10.8〜14.4m)程しかなく、十ヶ川と五
番川の悪水を排除することは不可能であった。三代目中野又左衛門は阿久比の
諸村と岩滑村の了承を取り付けると共に、山方新田の一部を幅18間(32.4m)
長さ315間(567m) にわたって開削し東方に流れていた十ヶ川と、山方新田の
中を流れていた五番川をまとめて新しい船入江に流し込むようにしたのである。
これによって洪水の危険はほとんど解決し、その上、広い船江が出現した。治
水と海運の両面を一挙に解決した大事業ともいえるものであり、近世末以降の
半田発展の原動力になったと言っても過言ではない。
 この功績によって三代目中野又左衛門は尾張藩から一代限りの名字帯刀を許
されている。
 

源兵衛橋

 山方新田と下半田を結ぶ橋。源兵衛が架けたかどうか不明。


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足元からのダイエット

2012年2月9日(木)
 最近、様々な形状のソール(靴底)のトレーニングシューズを、ショップや雑誌などで見かけます。例えば、つま先に角度を付けたもの、踵がないもの、柔らかく不安定ななものなどあります。この様なシューズをダイエットシューズとも呼びます。

 しかし、踵がないシューズなど10年いや、20年前から存在していました。その時代の筋力トレーニングにマッチしてなかったため、流行りませんでした。近年、トレーニング方法も加圧トレーニング、インナーマッスルトレーニング、体幹トレーニングなど様々なものが紹介されて、ソール形状の変化でそのトレーニング効果を得られるため、多くのメーカーが開発し流行となっています。

 例えば、つま先や踵に角度を付けたシューズでは、坂道を登る様な付加がつき、また歩幅も伸びるので、下半身の筋肉(大腿部、脹脛)をより鍛えられます。また、柔らかいソールシューズでウォーキングをすると、歩くためにアウターマッスル(表面の大きな筋肉)が使われますが、それと同時に不安定な足元のバランスを取るためにインナーマッスル(深層筋)が使われます。この様に普段あまり使われない筋肉をトレーニングすることで、基礎代謝が上がり、緩んだ下半身をシェイプアップできます。

 人は靴を365日履いて生活しています。なかなか運動習慣が定着しない方、種類や価格も様々ですが、試す価値は十分あります。ダイエットシューズを運動(ウォーキング)をする時だけでなく、日常生活で履いてみませんか。



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半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第5回

2012年1月26日(木)
中埜酢店(現ミツカン酢)

 「ミツカン」の商標で全国にその名を轟かせ、醸造酢では全国の70%以上の
シェアーを誇る中埜酢店の操業は文化年間(1804〜1817)の初め頃と言われて
いる。その操業にはこんなエピソードがある。
 ミツカン酢の創業者、初代中野又左衛門(1756〜1830)は酒造業小栗喜左衛
門の息子で安永8年(1779) 五代目中野半左衛門の娘くのの婿となった。彼
はくのの弟である半左衛門の跡取り七三郎(七代半左衛門)が幼少であったの
で半左衛門家の家督を預かっていたが、成人した七三郎に家督を引き渡したあ
と別家し自分も酒造業を始めた。
 彼は、文化元年(1804) 白子屋の間瀬利兵衛とともに江戸へ出かけた。こ
れは、自分が独立して再出発する機会に江戸の様子を調査するつもりだったの
かもしれない。ところが、この江戸旅行が彼の人生を変えるきっかけになった
のである。
 江戸ではこの頃、江戸湾で捕れる魚を使って「鮓(すし)」<江戸前寿司>が
作られ始めていた。江戸の町並みのそこここにあった鮓屋の存在が又左衛門の
心をとらえたようである。博物館「酢の里」の説明によるともう一つのエピソ
ードがそれに絡む。帰郷した又左衛門がある雨の日、野積みに放置されていた
酒粕の山から滴る雨水を何気なく嘗めてみたところ「酸っぱかった」ことで、
酒造業で多量に出るが肥料にしかならなかった酒粕から醸造酢を製することに
気づいたというものである。
 酢造りが快調だったことが中野家の酢造り関係最古文書「酢屋(すや)店卸
帳(たなおろしちょう)」からも分かる。文化7年(1810) という年は江戸積
みの酒の値段が大きく下落した年であったが、その年には既に酢造りを行って
いたと書かれており、更に、酢造りは快調で最初の9ヶ月で107両余の売り上
げ、文化10年(1813) には232両、文政18年(1828) には1000両を超
える売り上げがあったと書かれている。
 又左衛門は酒造では「増(ます)蔵屋(くらや)三六」と名乗っていたが、
酢造りでは「酢屋勘治郎」という屋号と「丸勘(まるかん)」の樽印を使ってい
た。文化13年に二代目に家督を譲ったが経営は順調で天保9年(1838) には
4000両を売り上げ、1000両の利益をあげている。
 三代目又左衛門になると元治元年(1864) の売り上げは二万両に迫り、こ
の年には酒造業をやめて酢造り一本に切り替え安定した経営がなされるように
なり、我が国津々浦々に知れ渡る大産業に成長するのである。

中埜銀行跡(現在はミツカン酢研究所)

 明治に入って産業革命の大波が当地へも押し寄せてきた。江戸時代に醸造業
と海運で巨万の富を得ていた多くの実業家達は争って近代産業に資本を投下し、
当地の産業活動は隆盛の一途をたどっていった。それに伴い商業活動も活発化
し知多商業会議所(半田商工会議所の前身)が現在の半田商工会議所の東あた
りに設立された。
 産業の発展は金の動きを活発化しいくつもの銀行が開業した。明治14年
(1881) 半田銀行、明治26年亀崎銀行、明治34年(1901) 中埜銀行が設
立された。ここがその中埜銀行の跡である。ちなみに、外部資本によって第百
三十六国立銀行(政府認可の為替を取り扱う銀行)、三井銀行半田支店が開業し
ている。


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◆◆◆献血にご協力ください◆◆◆

2012年1月13日(金)
◎献血にご協力ください
みなさんは、金山駅前やショッピングモールなどで「血液が不足しています」といったプラカードを持った人を見かけた事はありませんか?
■献血の重要性
 血液は栄養や酸素の運搬、免疫など人間の命を維持するために欠くことのできないものです。しかし、現在の医学では血液の代替品は製造できないため、みなさんの献血によって血液を確保できなければ、輸血を必要とする現代の医療は成り立ちません。「献血しよう!」という、みなさんの小さな決断が、尊い命を救っているのです。
■社会貢献
 東日本大震災をうけ、募金やボランティアや節電など、沢山のみなさんの善意が様々な形で東北地方に届けられ、自分のできる社会貢献についていろいろ考えさせられる機会となりました。
 昨年の世相を表す漢字が『絆』に決まりましたが、献血はまさに献血者と輸血者が血という『絆』で結ばれる行為に他なりません。身近で出来るとても大切な社会貢献なのです。ほんの少しの勇気を持って、献血に出かけましょう。
■献血の仕方
◇献血の種類 200ml献血、400ml献血、成分献血
◇年齢制限 
・200ml献血  男女共16歳〜69歳  ※注1
・400ml献血  男性17歳〜69歳、女性18歳〜69歳  ※注1
・成 分 献 血  男性18歳〜69歳、女性18歳〜55歳  ※注1
  ※注1 65歳以上は、60〜64歳の間に献血の経験のある方に限る
◇献血場所
 ・献血ルーム(献血ルームタワーズ20、刈谷献血ルーム等)
・移動献血会場 2月 4日(土)肉のびっくり市(半田)
           4日(土)イオンモール東浦
          11日(土)イオンモール半田
 ※詳しくは http://www.aichi.bc.jrc.or.jp/ をご覧ください。
(半田市献血推進協議会は、献血活動を推進しています)
                            
半田市保健センター


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半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第4回

2011年12月19日(月)
半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第4回 知多酪農発祥之地(レリーフ)

 鉄道の開通する数年前の明治14年(1881)頃、四代目中野又左エ門は自
分と家族の滋養、健康維持のために乳牛(デボン種、短角)を購入し牛乳を
得ようとした。乳牛は後に「エーヤシャ種・ホルスタイン種」に代わるが駅
前南東一帯に牧場を開き、鈴木さんという牧場管理人を雇い搾乳を始めた。
明治17年1月愛養舎を立ち上げ、瓶詰めの「ミツカン牛乳」を販売したと
ころ、武豊線を利用して出掛ける人々の人気を得、朝などは店頭に行列が出
来るほどだったという。
 駅前に牧場では迷惑だと考えて明治32年には柊町に移転したが、大正13
年(1924)頃には50頭の飼育頭数を数えるほどに発展した。その後、当地
では乳牛を飼育する者が増え、昭和12年(1937)には知多郡牛乳小売商業
組合(組合員29名)が設立された。
 この中野又左衛門氏による乳牛の飼育は当地方酪農の嚆矢ともいえるもの
であり、それを記念してこのレリーフが建立された。知多郡牛乳小売商業組
合は昭和56年1月「みどり牛乳農業協同組合」に名称を変更し、現在は「み
どり牛乳」という商品名の牛乳を販売している。
 当地方の酪農は北海道や九州などで行われている一般的な粗放的酪農とは
異なり、狭い土地で酪農経営が可能な特殊な方法を採っている。学校の校舎
状に作られた牧舎内部はちょうど一頭の牛が並んで寝起きできるような短冊
形の空間に仕切られ、牛は頭を同一方向に向けて並んで繋がれている。いわ
ゆる鶏をケージで飼育するのと同じ発想である。給飼と便の始末はそれぞれ
ベルトコンベアーによってなされる。搾乳時には牛をリラックスさせる妙な
るメロディーが牛舎内に流れ、天井のホースから伸びる搾乳機で搾ぼられた
牛乳は一カ所のタンクに集められる仕組みになっている。
 従来の粗放的酪農に対して私は「集約的酪農」という言葉を用いて説明し
ているが、当知多地方における単位面積あたりの飼育頭数が日本一だという
のも頷けるところである。近郊酪農の新しい姿ともいえるのものである。近
年は乳牛だけでなく肉牛の飼育も盛んで、柔らかく美味な牛肉への研究も進
み、新興勢力ながら「知多牛」として松阪牛、飛騨牛の牙城に迫る勢いであ
る。

御幸通り
 半田駅前通の「御幸通り」は半田隆盛の証である。電話・電信を扱う半田
郵便局が駅前にその偉容を誇り、東に向かって有名商店や料亭が軒を連ねて
いた。半田の誇る銘菓を全国の茶人に提供する菓子商「松華堂」、100人もの
大宴会が出来る大広間を持つ料亭「末広」などが今も健在である。
 明治23年3月30日夕刻、第一回陸海軍合同大演習御統監のためはるばる
東海道線にご乗車になって当地へいらっしゃった明治天皇は、前夜の衣ヶ浦
における海戦に続く明31日の半田町から亀崎町乙川にかけての陸軍の演習
を御統監のための武豊道仙田から半田ステーションにご到着になった。
 多くの人々が土下座してお迎えする中、白馬「金華山」に御騎乗の天皇は、
宿舎である小栗冨治郎家へ向かってこの通りをゆっくりお進みになった。
 その後を有栖川宮、小松宮、北白川宮、華頂宮の4殿下と山県有朋内閣総
理大臣、大山陸軍大臣、西郷海軍大臣ら全閣僚、将星、大官が従ったという。
名付けて「御幸通り」である。

半田市観光ガイド協会会長、半田市文化財専門委員長 河合克己



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◆◆◆ストレスと休養◆◆◆

2011年12月9日(金)
 ストレス社会と言われる現代、多くの方が日々さまざまなストレスを感じていると思います。社会で生きている限り、不安や悩み、疲れなど多くのストレスを受けているのではないでしょうか?そこで大切になるのは、ストレスを対処する方法やストレスを減らす方法を知ることです。

 ストレス解消の最も基本的な方法は休養です。今回は効果的な休養方法についてお伝えします。


T睡眠
 ぐっすり眠ることで心と体を休めるということは、全ての人に共通したストレス解消法です。しかしイライラした状態ではなかなか寝つけず、余計にストレスを感じるので温かい飲み物やお風呂でリラックスしたり、軽い運動などで程よい疲れを感じて眠ると深く良い眠りに繋がります。また食べた直後に眠るのは胃に負担がかかり、体の疲れも残りやすいのでなるべく控えるようにしましょう。

U入浴
 入浴は体の汚れを洗い流し、心の疲れを癒す身近なストレス解消法の一つです。リラックスをするための適温は38度くらいと言われています。ぬるめのお湯は心臓への負担も少なく、美容や疲労回復の効果も期待できます。また、疲れた部分のマッサージを取り入れるとさらにその効果が高まります。

V運動
 体を動かすことも有効なストレス解消法です。筋肉を動かして血液循環を促し、酸素や栄養を体全体に行き渡らせることで、すっきり爽快な気分になります。また、寝る前のヨガやストレッチはリラックス効果が期待できるためおすすめです。

自分に合った休養方法でストレスを減らしていきましょう。


半田市医師会健康管理センター


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半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第3回

2011年11月25日(金)
開通当時の武豊線

○戦後、武豊線は新橋横浜間に次ぐ我が国2番目の開通といわれた時期があっ
たが、諸家の研究が進むにつれてその間違いが指摘された。現時点では20番
目と言う説がある。(滝塚氏の研究)
○当初資材運搬線として建設された武豊線であったが、伊藤博文総理大臣へあ
てた井上勝鉄道局長からの上申書の「幹線資材運搬のための敷設ではあるが、
毎日何回か往復するものの帰路は空車である。そこへ1,2両の客車を着けて
も運転上支障はない。むしろ土民の便利を得る」と言う意見によって旅客運搬
が許可された。
○開通当時、武豊,半田、亀崎、緒川、大高、熱田の6駅が置かれ、上りは武
豊発午前7時と午後4時発、下りは熱田発午前9時45分と午後6時45分の
各2本であった。ちなみに、武豊・熱田間の所要時間は1時間45分である。
(平均時速18.9km)時刻表からでは読み取れないが、当時の列車運行にお
いて1時間のうちに必ず5分間停車の駅が設けられていた。これは乗客の「大
小便御用」の時間であった。列車が該当駅に近づくと車掌が「次の駅にて用足
し」との一声を発したという。トイレ設置の車両が運行されたのは明治22年
であった。

○武豊駅の初代駅長は、武豊線の総括駅長で後の東京駅長になる高橋善一(渥
美郡出身)である。
○敷設工事
 大足村(武豊町)道仙田に幅3間(約5.5m)、長さ80間(約140m)の木製
桟橋を設け、神戸港から弁財船などによって運んだイギリス製のレール、機関
車、貨車、客車や建設材料の木材、砂利等を陸揚げし、請け負った御用業者吉
田組の慣れた働きに加えて、積極的にそれを支援した地元住民の努力によって
明治18年8月1日着工、翌19年3月1日開通(7ヶ月)と言う短期間に敷
設を成し遂げたのである。
 工事の総監督は工技生養成所教官飯田俊徳大技師長、工事補佐が松田周次技
師、工事担当は木村懋(つとむ)三等技手である。
 測量は明治9年(1876)汽車組み立て方として鉄道省に雇われ、工技生養成所
で飯田大技師長と関係もあったイギリス人のウィリアム・ピッツが行った。当
時35才の彼は日本人の女性(武豊町安達歯科医院の御祖母)と結婚したが、
明治38年54歳の時、明治政府から従五位の勲章を貰いロンドンに帰国した。
○半田駅建設
 武豊線開業当時の半田駅は現在より北の第2半田街道踏切(大踏切)付近に
あり、一般の利用客はきわめて少なく、明治26年6月20日までは駅長と駅
夫の二人で事が足りるほどであった。初代駅長は小林弥吉である。貨物の取り
扱いも一日に6〜15口程度で、収入は多いときでも一日に20円ほどであっ
た。
 明治30年代から利用客も貨物の取り扱いも増加し、肥料、麦酒、酒、酢、
醤油、味噌、米、油、綿布、石炭が発送貨物の主な物であった。地元産業の発
展に伴って地元有志の間で駅を拡張移転し、それまでの駅の位置に倉庫を建て
るという考えが持ち上がった。その内容は、移転に必要な土地の確保や、移転
予定地にある土蔵の移転費用等を地元有志の寄付金で補おうというものであっ
た。
 そのことを物語る次の用な資料が県庁資料にある。
………………………………………………………………………………
 明治29年1月提出の「半田停車場変更ニ関シ敷地等献納願」(有志総代中埜
半六)に対し、「献納聴許ノウエ褒賞ノ手続ヲトルベシ」という逓信大臣鐵道局
長の指令が愛知県知事宛に発せられている。
………………………………………………………………………………
 本格的な拡張工事は明治44年度に工費6万円を掛けて着手され、同45年
2月に完了した。(構内面積5,744坪、本屋及び集札所上屋46坪、貨物上屋40
坪、乗降場上屋14坪)であり、現在の跨線橋はその当時の姿を残していると
いう。一日の荷扱い能力は50トンに達し、処理が追いつかず多く滞貨の山を
築いたという。

半田市観光ガイド協会会長、半田市文化財専門委員長 河合克己


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半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第2回

2011年11月25日(金)
○JR武豊線と半田駅(その2)

…先に述べた地元の働きかけや、名古屋区長吉田禄在の動きも政府方針の変
更に大きく影響を及ぼしているもの、決定的ともいえるのは武豊・熱田間に
優位性を述べた井上鉄道局長の意見状であった。そのあらましを紹介しよう。

[1] 埠頭の条件
 四日市、半田(武豊とは書かれていないが武豊港を指す)の両港に大差は
ないが…。

[2] 工事の条件
○距離
 垂井−四日市間35哩、名古屋−半田間20哩 

○工事の難易度
*垂井−四日市間は大垣岐阜間の諸川(木曽三川を指す)に巨大な橋梁架設
の必要がある。名古屋−半田間は木曽川の東側に出るので問題はない。

*地形の様子、工事費の多寡、工事期間の長短について勘案すると、垂井−
四日市間は、垂井より右折して牧田川を渡り養老山下に出て揖斐川に沿って
桑名の西端から四日市に達するため、ほとんどが山麓をめぐり数本の勾配の
きつい川(養老山脈から流下する扇状地を形成する川をいう)を横断する必
要があり、しばしば洪水や氾濫の害を受けるところであり、工費は200万円
、工事期間は2カ年必要である。それに比べて半田−名古屋間は、名古屋の
南端においてこの線は右折して東海道を横切り、南に向かって亀崎、半田を
経て長尾村において直接港に出る。その間に数本の河川はあるが小規模で地
形も平坦であるので砥石のごとく工事がしやすい。工事費は80万円、工事期
間は7,8ヶ月もあれば十分である。

*結論から言うと、半田−名古屋線は垂井−四日市線に比べると距離は五分
の三、工事費は五分の二、工事期間はわずか三分の一で済む。

この意見書が財政難に悩む政府を動かしたと言って良い。
直後の明治18年6月中山鐵道支線半田線として認可がおり、更に明治19年
(1886)3月1日の武豊線開通直後の明治19年7月には中山道の幹線決定を東
海道へ変更する公布が出され、明治22年7月に東京・神戸間の東海道線が開
通するのである。

半田市観光ガイド協会会長、半田市文化財専門委員長 河合克己


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お問い合わせ先
半田商工会議所
TEL (0569)21-0311 FAX (0569)23-4181
 お問い合わせページ
 info@handa-cci.or.jp