
知多酪農発祥之地(レリーフ)
鉄道の開通する数年前の明治14年(1881)頃、四代目中野又左エ門は自
分と家族の滋養、健康維持のために乳牛(デボン種、短角)を購入し牛乳を
得ようとした。乳牛は後に「エーヤシャ種・ホルスタイン種」に代わるが駅
前南東一帯に牧場を開き、鈴木さんという牧場管理人を雇い搾乳を始めた。
明治17年1月愛養舎を立ち上げ、瓶詰めの「ミツカン牛乳」を販売したと
ころ、武豊線を利用して出掛ける人々の人気を得、朝などは店頭に行列が出
来るほどだったという。
駅前に牧場では迷惑だと考えて明治32年には柊町に移転したが、大正13
年(1924)頃には50頭の飼育頭数を数えるほどに発展した。その後、当地
では乳牛を飼育する者が増え、昭和12年(1937)には知多郡牛乳小売商業
組合(組合員29名)が設立された。
この中野又左衛門氏による乳牛の飼育は当地方酪農の嚆矢ともいえるもの
であり、それを記念してこのレリーフが建立された。知多郡牛乳小売商業組
合は昭和56年1月「みどり牛乳農業協同組合」に名称を変更し、現在は「み
どり牛乳」という商品名の牛乳を販売している。
当地方の酪農は北海道や九州などで行われている一般的な粗放的酪農とは
異なり、狭い土地で酪農経営が可能な特殊な方法を採っている。学校の校舎
状に作られた牧舎内部はちょうど一頭の牛が並んで寝起きできるような短冊
形の空間に仕切られ、牛は頭を同一方向に向けて並んで繋がれている。いわ
ゆる鶏をケージで飼育するのと同じ発想である。給飼と便の始末はそれぞれ
ベルトコンベアーによってなされる。搾乳時には牛をリラックスさせる妙な
るメロディーが牛舎内に流れ、天井のホースから伸びる搾乳機で搾ぼられた
牛乳は一カ所のタンクに集められる仕組みになっている。
従来の粗放的酪農に対して私は「集約的酪農」という言葉を用いて説明し
ているが、当知多地方における単位面積あたりの飼育頭数が日本一だという
のも頷けるところである。近郊酪農の新しい姿ともいえるのものである。近
年は乳牛だけでなく肉牛の飼育も盛んで、柔らかく美味な牛肉への研究も進
み、新興勢力ながら「知多牛」として松阪牛、飛騨牛の牙城に迫る勢いであ
る。
御幸通り
半田駅前通の「御幸通り」は半田隆盛の証である。電話・電信を扱う半田
郵便局が駅前にその偉容を誇り、東に向かって有名商店や料亭が軒を連ねて
いた。半田の誇る銘菓を全国の茶人に提供する菓子商「松華堂」、100人もの
大宴会が出来る大広間を持つ料亭「末広」などが今も健在である。
明治23年3月30日夕刻、第一回陸海軍合同大演習御統監のためはるばる
東海道線にご乗車になって当地へいらっしゃった明治天皇は、前夜の衣ヶ浦
における海戦に続く明31日の半田町から亀崎町乙川にかけての陸軍の演習
を御統監のための武豊道仙田から半田ステーションにご到着になった。
多くの人々が土下座してお迎えする中、白馬「金華山」に御騎乗の天皇は、
宿舎である小栗冨治郎家へ向かってこの通りをゆっくりお進みになった。
その後を有栖川宮、小松宮、北白川宮、華頂宮の4殿下と山県有朋内閣総
理大臣、大山陸軍大臣、西郷海軍大臣ら全閣僚、将星、大官が従ったという。
名付けて「御幸通り」である。
半田市観光ガイド協会会長、半田市文化財専門委員長 河合克己