
敗戦から70年目を迎えた今日、マスメディアなどを通じて誠に奇妙な論議が繰り返されています。
その第一は、「歴史認識が違う」ということが俎上に載せられていることです。私たちは小学生のころ、遠足に行ったあとの授業で作文を書いて出した経験があると思います。そのときの作文は十人十色であったはずです。同じ日に同じ体験をしても、それを言葉や文字に表わせば違う表現になるのは当然なことです。にもかかわらず、歴史認識という人ごとに違っていて何の不思議もないことに難癖をつけられ、それを切り返せずにいるのです。
中国や韓国から折りに触れ安倍首相の発言にいちゃもんをつけられているのは、要するに、20年前の村山談話にある謝罪の言葉が入っていないことに尽きるようです。しかし、これも奇妙な話です。世界の歴史を見れば、敗戦の苦汁を嘗めた側は、そのまま隷属するか領土を削られ賠償金を払った上で対等の関係に戻るかのいずれかです。対等であるはずの国が、敗戦から50年後に改めて謝罪し、それから10年毎に謝罪を繰り返すなどということは、歴史上例のない特異なことです。
こんなことになった原因は、村山談話を出したその人にあります。国際政治の場というのはマキァヴェリズムの場であることが全く解っていない人が、言わずもがなの談話を出してしまったことが後々まで尾を引いているのです。権謀術数に長けた隣国のトップが、このスキを逃がすはずがありません。このままでは、これから80年、90年、100年と謝罪を繰り返すことになるのは目に見えています。それは、孫や曽孫の世代が祖父や曽祖父の世代がしたことに謝罪することになります。安倍首相には知恵の限りを尽くしてこの流れを断ち切ってほしいものです。
もう一つは、これまた騒々しくなっている安保問題です。戦争反対とだけ叫んでいる人たちもまた、マキァヴェリズムの場ということが解らないのです。戦争反対という主張は、善悪で判断すれば善です。しかし絶対反対というのは一つの極端です。その対極にあるのがあのイスラム国という戦争を撒き散らしている者たちです。古来先哲は両極端を避けて中道や中庸を説きました。
四海平穏なときならいざ知らず、隣国がその領土拡張欲を露骨に示し、事あるごとに自国民の怨恨を煽りたてている現実を前にしては、極端から離れ、備えを固めて彼我のバランスを図ることは当然のことです。孫子は「兵は詭道なり」と説きました。戦争は人を欺くことだと言っているのです。警戒の度が高まっているときには、たとえ欺くことはなくても欺かれてはならないのです。予てから「日本の常識は世界の非常識」と言われてきました。日本の中でしか通用しない常識にとらわれていてはいけないのです。
ところで、このような戦後70年の日本の社会に蔓延した現象の本質を、逸速く見抜いて、これを「大衆の反逆」として指摘したのがオルテガです。
欧州の危機的状況を目の当たりにして1930年に発表したこの著書で、彼は大衆を「社会的地位や階層ではなく、人の生き方での区別により、精神の高貴性を持つ少数者に対するその他大勢の者」としました。そしてその少数者は「愚者とは紙一重であることを自覚して、常に自分に義務を課し努力している」のに対し、凡庸な者は、「自らを省みることがなく自分は極めて分別に富む人間だと思っている」として、その見本は専門家(専門外のことはまるで知らない人)だと指摘しました。そして学者、技術者などを挙げていますが、今ならさしづめマスメディアを賑わしている作家や評論家、新聞の論説委員などがピッタリでしょう。このような大衆が幅をきかせている(即ち、反逆している)社会では、「権利だけは一切の権利を持ち、礼節などを含むあらゆる義務からは逃避するという信念が貫かれることになる」としています。
戦後70年の日本はこういう大衆が絶えず増殖して、次代に重い負の遺産を残してしまったのです。
半田商工会議所 副会頭 筒井保司(税理士法人経世会 代表社員)