半田商工会議所 - HANDA BIZ WEB
HOME > オピニオンHANDA
 

オピニオンHANDA 半田市内の文化財探訪


半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第4回

2011年12月19日(月)
半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第4回 知多酪農発祥之地(レリーフ)

 鉄道の開通する数年前の明治14年(1881)頃、四代目中野又左エ門は自
分と家族の滋養、健康維持のために乳牛(デボン種、短角)を購入し牛乳を
得ようとした。乳牛は後に「エーヤシャ種・ホルスタイン種」に代わるが駅
前南東一帯に牧場を開き、鈴木さんという牧場管理人を雇い搾乳を始めた。
明治17年1月愛養舎を立ち上げ、瓶詰めの「ミツカン牛乳」を販売したと
ころ、武豊線を利用して出掛ける人々の人気を得、朝などは店頭に行列が出
来るほどだったという。
 駅前に牧場では迷惑だと考えて明治32年には柊町に移転したが、大正13
年(1924)頃には50頭の飼育頭数を数えるほどに発展した。その後、当地
では乳牛を飼育する者が増え、昭和12年(1937)には知多郡牛乳小売商業
組合(組合員29名)が設立された。
 この中野又左衛門氏による乳牛の飼育は当地方酪農の嚆矢ともいえるもの
であり、それを記念してこのレリーフが建立された。知多郡牛乳小売商業組
合は昭和56年1月「みどり牛乳農業協同組合」に名称を変更し、現在は「み
どり牛乳」という商品名の牛乳を販売している。
 当地方の酪農は北海道や九州などで行われている一般的な粗放的酪農とは
異なり、狭い土地で酪農経営が可能な特殊な方法を採っている。学校の校舎
状に作られた牧舎内部はちょうど一頭の牛が並んで寝起きできるような短冊
形の空間に仕切られ、牛は頭を同一方向に向けて並んで繋がれている。いわ
ゆる鶏をケージで飼育するのと同じ発想である。給飼と便の始末はそれぞれ
ベルトコンベアーによってなされる。搾乳時には牛をリラックスさせる妙な
るメロディーが牛舎内に流れ、天井のホースから伸びる搾乳機で搾ぼられた
牛乳は一カ所のタンクに集められる仕組みになっている。
 従来の粗放的酪農に対して私は「集約的酪農」という言葉を用いて説明し
ているが、当知多地方における単位面積あたりの飼育頭数が日本一だという
のも頷けるところである。近郊酪農の新しい姿ともいえるのものである。近
年は乳牛だけでなく肉牛の飼育も盛んで、柔らかく美味な牛肉への研究も進
み、新興勢力ながら「知多牛」として松阪牛、飛騨牛の牙城に迫る勢いであ
る。

御幸通り
 半田駅前通の「御幸通り」は半田隆盛の証である。電話・電信を扱う半田
郵便局が駅前にその偉容を誇り、東に向かって有名商店や料亭が軒を連ねて
いた。半田の誇る銘菓を全国の茶人に提供する菓子商「松華堂」、100人もの
大宴会が出来る大広間を持つ料亭「末広」などが今も健在である。
 明治23年3月30日夕刻、第一回陸海軍合同大演習御統監のためはるばる
東海道線にご乗車になって当地へいらっしゃった明治天皇は、前夜の衣ヶ浦
における海戦に続く明31日の半田町から亀崎町乙川にかけての陸軍の演習
を御統監のための武豊道仙田から半田ステーションにご到着になった。
 多くの人々が土下座してお迎えする中、白馬「金華山」に御騎乗の天皇は、
宿舎である小栗冨治郎家へ向かってこの通りをゆっくりお進みになった。
 その後を有栖川宮、小松宮、北白川宮、華頂宮の4殿下と山県有朋内閣総
理大臣、大山陸軍大臣、西郷海軍大臣ら全閣僚、将星、大官が従ったという。
名付けて「御幸通り」である。

半田市観光ガイド協会会長、半田市文化財専門委員長 河合克己



関連Webサイト

PDFリンク

    

半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第3回

2011年11月25日(金)
開通当時の武豊線

○戦後、武豊線は新橋横浜間に次ぐ我が国2番目の開通といわれた時期があっ
たが、諸家の研究が進むにつれてその間違いが指摘された。現時点では20番
目と言う説がある。(滝塚氏の研究)
○当初資材運搬線として建設された武豊線であったが、伊藤博文総理大臣へあ
てた井上勝鉄道局長からの上申書の「幹線資材運搬のための敷設ではあるが、
毎日何回か往復するものの帰路は空車である。そこへ1,2両の客車を着けて
も運転上支障はない。むしろ土民の便利を得る」と言う意見によって旅客運搬
が許可された。
○開通当時、武豊,半田、亀崎、緒川、大高、熱田の6駅が置かれ、上りは武
豊発午前7時と午後4時発、下りは熱田発午前9時45分と午後6時45分の
各2本であった。ちなみに、武豊・熱田間の所要時間は1時間45分である。
(平均時速18.9km)時刻表からでは読み取れないが、当時の列車運行にお
いて1時間のうちに必ず5分間停車の駅が設けられていた。これは乗客の「大
小便御用」の時間であった。列車が該当駅に近づくと車掌が「次の駅にて用足
し」との一声を発したという。トイレ設置の車両が運行されたのは明治22年
であった。

○武豊駅の初代駅長は、武豊線の総括駅長で後の東京駅長になる高橋善一(渥
美郡出身)である。
○敷設工事
 大足村(武豊町)道仙田に幅3間(約5.5m)、長さ80間(約140m)の木製
桟橋を設け、神戸港から弁財船などによって運んだイギリス製のレール、機関
車、貨車、客車や建設材料の木材、砂利等を陸揚げし、請け負った御用業者吉
田組の慣れた働きに加えて、積極的にそれを支援した地元住民の努力によって
明治18年8月1日着工、翌19年3月1日開通(7ヶ月)と言う短期間に敷
設を成し遂げたのである。
 工事の総監督は工技生養成所教官飯田俊徳大技師長、工事補佐が松田周次技
師、工事担当は木村懋(つとむ)三等技手である。
 測量は明治9年(1876)汽車組み立て方として鉄道省に雇われ、工技生養成所
で飯田大技師長と関係もあったイギリス人のウィリアム・ピッツが行った。当
時35才の彼は日本人の女性(武豊町安達歯科医院の御祖母)と結婚したが、
明治38年54歳の時、明治政府から従五位の勲章を貰いロンドンに帰国した。
○半田駅建設
 武豊線開業当時の半田駅は現在より北の第2半田街道踏切(大踏切)付近に
あり、一般の利用客はきわめて少なく、明治26年6月20日までは駅長と駅
夫の二人で事が足りるほどであった。初代駅長は小林弥吉である。貨物の取り
扱いも一日に6〜15口程度で、収入は多いときでも一日に20円ほどであっ
た。
 明治30年代から利用客も貨物の取り扱いも増加し、肥料、麦酒、酒、酢、
醤油、味噌、米、油、綿布、石炭が発送貨物の主な物であった。地元産業の発
展に伴って地元有志の間で駅を拡張移転し、それまでの駅の位置に倉庫を建て
るという考えが持ち上がった。その内容は、移転に必要な土地の確保や、移転
予定地にある土蔵の移転費用等を地元有志の寄付金で補おうというものであっ
た。
 そのことを物語る次の用な資料が県庁資料にある。
………………………………………………………………………………
 明治29年1月提出の「半田停車場変更ニ関シ敷地等献納願」(有志総代中埜
半六)に対し、「献納聴許ノウエ褒賞ノ手続ヲトルベシ」という逓信大臣鐵道局
長の指令が愛知県知事宛に発せられている。
………………………………………………………………………………
 本格的な拡張工事は明治44年度に工費6万円を掛けて着手され、同45年
2月に完了した。(構内面積5,744坪、本屋及び集札所上屋46坪、貨物上屋40
坪、乗降場上屋14坪)であり、現在の跨線橋はその当時の姿を残していると
いう。一日の荷扱い能力は50トンに達し、処理が追いつかず多く滞貨の山を
築いたという。

半田市観光ガイド協会会長、半田市文化財専門委員長 河合克己


関連Webサイト

PDFリンク

    

半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第2回

2011年11月25日(金)
○JR武豊線と半田駅(その2)

…先に述べた地元の働きかけや、名古屋区長吉田禄在の動きも政府方針の変
更に大きく影響を及ぼしているもの、決定的ともいえるのは武豊・熱田間に
優位性を述べた井上鉄道局長の意見状であった。そのあらましを紹介しよう。

[1] 埠頭の条件
 四日市、半田(武豊とは書かれていないが武豊港を指す)の両港に大差は
ないが…。

[2] 工事の条件
○距離
 垂井−四日市間35哩、名古屋−半田間20哩 

○工事の難易度
*垂井−四日市間は大垣岐阜間の諸川(木曽三川を指す)に巨大な橋梁架設
の必要がある。名古屋−半田間は木曽川の東側に出るので問題はない。

*地形の様子、工事費の多寡、工事期間の長短について勘案すると、垂井−
四日市間は、垂井より右折して牧田川を渡り養老山下に出て揖斐川に沿って
桑名の西端から四日市に達するため、ほとんどが山麓をめぐり数本の勾配の
きつい川(養老山脈から流下する扇状地を形成する川をいう)を横断する必
要があり、しばしば洪水や氾濫の害を受けるところであり、工費は200万円
、工事期間は2カ年必要である。それに比べて半田−名古屋間は、名古屋の
南端においてこの線は右折して東海道を横切り、南に向かって亀崎、半田を
経て長尾村において直接港に出る。その間に数本の河川はあるが小規模で地
形も平坦であるので砥石のごとく工事がしやすい。工事費は80万円、工事期
間は7,8ヶ月もあれば十分である。

*結論から言うと、半田−名古屋線は垂井−四日市線に比べると距離は五分
の三、工事費は五分の二、工事期間はわずか三分の一で済む。

この意見書が財政難に悩む政府を動かしたと言って良い。
直後の明治18年6月中山鐵道支線半田線として認可がおり、更に明治19年
(1886)3月1日の武豊線開通直後の明治19年7月には中山道の幹線決定を東
海道へ変更する公布が出され、明治22年7月に東京・神戸間の東海道線が開
通するのである。

半田市観光ガイド協会会長、半田市文化財専門委員長 河合克己


関連Webサイト

PDFリンク

    

半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第1回

2011年11月25日(金)
○JR武豊線と半田駅

 開国に伴って我が国の近代化は急激に進行し、その一つが鉄道の建設であ
った。
 明治5年(1872)に東京・横浜間が開通、その2年後の明治7年には神戸・
大阪間が開通したが、いずれも開港場の貿易活動促進を目的とするものであ
り、幹線鉄道の建設には至っていなかった。しかし、東京・神戸間を結ぶ計
画は明治2年11月には計画されていた。ただ、その経路は太平洋に沿う東
海道ルートにするか、内陸部の中山道ルートにするか明治16年まで決定さ
れていなかった。
 当初、東海道案は沿岸航路と競合することや、外敵の艦砲射撃で破壊され
やすいとする陸軍の軍事上の理由による反対(明治16年10月、陸軍卿山県
有朋から出された上申書)等によって影が薄く、むしろ、木曽を始め内陸部
の活性化が期待される中山道案が有力で、政府によって明治16年(1883)10
月23日「中山鉄道敷設」が決定されていた。
 中山鉄道は京都、長浜、大垣、岐阜、飯田,甲府、高崎、東京を結ぶとい
うもので、名古屋を通過しない(支線では結ぶ)計画であり、この計画の資
材揚陸港として四日市港が考えられていた。そういった趨勢の中、当地では
知多・碧南両郡長の指導によって衣ヶ浦築港の建議が亀崎、半田、北大浜、
大浜四ヶ村の有志によって愛知県に出され、鉄道敷設の資材揚陸港として武
豊港を押す動きも活発化していた。政府の方針に沿って既に明治17年5月
に着工認可がおりていた四日市・大垣間敷設に代わって、武豊港を資材揚陸
港として武豊・熱田間に鉄道敷設が変更になったのには次のような理由が考
えられる。

・井上勝鉄道局長の意見状(四日市・垂井間と武豊・熱田間鉄道敷設工事に
ついて)

・東西幹線鉄道の「名古屋とばし」に危機感を抱いた、当時の名古屋区長吉
田禄在の政府への働きかけ

・西南戦争の出費からインフレに陥った財政を立て直すため松方内閣が取っ
たデフレ政策による大きな財政危機

 先に述べた地元の働きかけや、名古屋区長吉田禄在の動きも政府方針の変
更に大きく影響を及ぼしているもの、決定的ともいえるのは武豊・熱田間に
優位性を述べた井上鉄道局長の意見状であった…。

半田市観光ガイド協会会長、半田市文化財専門委員長 河合克己


関連Webサイト

PDFリンク

    

半田市内の文化財探訪 その7(成岩地域)の第8回(最終回)

2011年7月1日(金)
半田市内の文化財探訪 その7(成岩地域)の第8回(最終回)

半田市観光ガイド協会会長、半田市文化財専門委員長 河合克己

○成岩城址

 今から450年ほど前、成岩の地に「成岩城」があったと伝えられている。
 城があったと思われる土地は、現在の神戸公民館南方から南東方向へかけ
ての一帯で、名鉄河和線によって中央少し東よりを分断されている、10年ほ
ど前には城域の北東の住宅の庭に残っていた土塁らしき小山も今は無く、地
元の有志が建てた成瀬隼人正の御子孫の筆による「成岩城址」の碑がひっそ
りと立っている。平成18年度愛知県教育委員会文化財課がユンボを使って
線路沿いを1000mに渉って掘削したが遺物の発見はなかった。

 愛知県教育委員会発行の「愛知県中世城館調査報告 W 知多版(1998)」
に下記のように報告されている。

 所在地  半田市有楽町七丁目
 保 存  一部残存か
 旧表示  知多郡成岩村
 時 期  ―天文年間―[成岩町史]
 地名等  城ノ上南、城ノ上南、城越、馬場
 城 主  榎本了円×梶田五左衛門
 立 地  段丘端・標高7m(比高5m)
 文 献  半田町史・成岩町史・覚書・雑記・雑志・徇行記・尾志・
        小治田全161・大668
 現 状  畑地・宅地・公園
 遺 構  土塁(?)
 規 模  230×35間[覚書]
 絵図等  尾陽雑記所収図
 調査歴
 概 要  
 成岩城は榎本了円の居城であったが,天文年間(1532~54)に緒川の水野
氏に攻められ落城している。当初城側がよく防いだが、城内に裏切りがあり、
紺屋が淵より攻め破られ落城したという。
 その後は水野氏の家臣である梶川五左衛門がはいるが(「尾陽雑記」)、
「言継(ときつぐ)卿記」の弘治2年(1556)3月14日の記事に「水野山城守内
ナラワノ里」とあり、後には常滑水野氏の勢力下にあったと思われる。「尾陽
雑記」所収図には三つの郭(くるわ)が並列的に描かれており、「岡高くして今
八幡の社あり、城かたちも片方に見ゆる。城二丁余は繞也(めぐるなり)、東
の方海岸切岸にて下は沼田也、西は堀深くして、凡(およそ)三曲輪のあと残
れり」と記されている。現在は八幡社はなく、土取によりかなり削平された
といわれているが、周囲より一段高くなっている。また、「紺屋ヶ淵」の地名
が示すように商工業者が集住する城下集落が形成されていた可能性もある。
 現在、ほとんど原形をとどめないほどに破壊されている。民家の庭に土塁
の削り残しのような高まりAが見られるが、かっての曲輪面の削り残された
跡といわれている。しかし、地積図には、周囲を水田に囲まれた畑地が続く
様子が見られ、昭和29年の地形図には北の曲輪に土塁状の遺構も見られる。

関連Webサイト

PDFリンク

    
→前の10件  →最新の10件  →次の5件
11 - 15件目/全15件


お問い合わせ先
半田商工会議所
TEL (0569)21-0311 FAX (0569)23-4181
 お問い合わせページ
 info@handa-cci.or.jp