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オピニオンHANDA 半田市内の文化財探訪


半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第14回(最終回)

2012年10月15日(月)
幕末の大事件「お札降り」

 慶応3年(1867)10月8日の大政奉還前頃から、近いうちに大変革が起こるのではないかという予感が民衆の間に広がり始めていたが、それを予言するかのような出来事が7月下旬に三河吉田城近くで発生した。これがいわゆる「お札降り」と呼ばれる珍現象である。
 家々に神様の御祓い札が降るといった奇端に刺激された人々は村中を踊り狂いながら「ええじゃないか、ええじゃないか」と練り歩き、それが伊勢神宮への抜け参りに発展するといった現象が東海道筋から中国、四国筋に至る広範囲に伝播したのである。
 このお札降り現象は知多郡内各所でも発生しており、半田市内では半田村と成岩村のものが知られている。
 半田村では9月25日夜半と翌26日早朝に天照皇大神宮と熱田皇大神宮、さらに10月2日夜半、豊川大明神の御札が小栗三郎兵衛家の庭木の上に降っている。
 小栗三郎兵衛家とは明治23年の陸海軍大演習の際、参謀総長親王殿下の宿舎になったことでも有名な半田村の素封家のひとりである。小栗家では御仮屋をつくって御札を祀ったが、近所はもちろん三河からも参詣者が引きも切らず、その対応や接待に追われたと御当主の記録にある。ちなみに、接待等に要した経費は155両余であったという。
 もう1件は、小栗家より2週間ほど前の9月10日頃に成岩村の枝郷西成岩の二郎助家に降り、その後、周辺の家々にも降ったというもので、代官所への報告によると10月25日までに112枚もの降札が77軒の家あったという。
 歴史学者の詳細な研究によると、西成岩の降札は1町5反歩以上の土地を所有する自作農の60%に相当する家々にみられたことから、何者かによる恣意的な作業ではなかったかといわれている。


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半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第13回

2012年9月21日(金)
半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第13回 半田小学校
 
 「半一」という愛称で呼ばれ、その存在が町民の誇りでもあったのがこの半田第一尋常高等小学校(現半田小学校)である。
 当時、教育は地方行政団体の単位でなされていたので、自然、教育予算も他地域とは大きな差違が出た。巷でよく言われたのが「半田は先生の給料が他より高いので、先生になるための競争率が高く、先生のレベルが他とは違う」というものであった。戦後、全ての小中学校が愛知県の管轄になり人事も一括に行われるようになったので、前述のようなことは無くなった。
 財政的に豊かなことは教育環境も整うということで、既に大正時代にコンクリート校舎なるものが半田小学校には存在した。「新館」と呼ばれる校舎がそれであった。その後、更にもう一棟建設され「新々館」と呼ばれていた。
 校長も碧海郡や愛知県で視学官を経験したベテランの実力者を半田町は獲得していた。今でも年配に方々の記憶に残る「マセカン」こと「間瀬勘作」先生が校長に迎えられて先進的な教育を行っていたのである。
 文武両道にすばらしい活躍をした半田第一尋常高等小学校は当時の半田町そのものであったともいえるのである。



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半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第12回

2012年8月17日(金)
葉住座(地域の文化と娯楽の源「芝居小屋」)
 
 郡役所前から西進し、半田小学校へ向かって右へ曲がるあたりで武豊線の線路が見える。その線路の西北あたりに「葉住座」と呼ばれる芝居小屋(戦後は映画館)があった。
名前の「葉」は業葉神社の「葉」、「住」は住吉神社の「住」で、上半田と下半田双方の住民の役に立とうというものであった。芝居や映画のことはさておき、ここでは亀崎の「相生座」の説明でも触れたように、社会主義を当地の無垢な住民に浸透させる事をねらった大演説会が催されたことがある。
明治41年(1908) 東京からはるばる招かれた片山潜と鈴木楯夫を中心とする社会主義者達が、当地の中産階級を対象に天皇制反対を暗ににおわせる社会主義思想をぶち上げたのである。聴衆は亀崎よりも少なかったものの250人も集まっている。
 この演説会を企画し東京から当時の超一流の社会主義思想を持つ演者を招いたのは後に天皇に爆弾を投げつけて殺すか負傷させ、天皇も我々と同じ生身の人間なのだということを民衆に知らせたいと一途に考え、それを実行に移そうとした宮下太吉であった。彼は亀崎鉄工場の工員であったが、高浜の花火職人と懇意になり爆弾造りに役立つ火薬の調合を学んでいたという。
 郷里(長野県明科)に帰って爆弾を完成させた頃、それが官憲の知るところとなり一味の全員が逮捕され、そのうち幾人もが死刑になった「大逆事件」の極端な首謀者が彼なのである。
 しかし、この事件の発生によって我が国社会主義の萌芽は完全につみ取られ、軍部による専制国家への道をたどることになるのは皮肉なことである。


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半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第11回

2012年7月20日(金)
半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第11回 半田商工会議所・半田町道路元標
     
 現在の商工会議所の位置にかつて半田市役所があり、それ以前にはこの地に半田町役場があった。半田町道路元標があるのも頷けるところである。半田市の地図上の中心ということである。

 

同盟書林・加登屋(かとや)旅館跡・知多郡役所(現半田北区民館)     

 明治から昭和へかけて半田がきわめて隆盛であった頃、この一帯は半田の、いや知多郡の政治・経済・文化の中心地域であった。
 知多郡は南は離島から北は大高(名古屋市緑区)あたりまでがその範囲であり、知多郡役所とはそれら知多郡の政治の中心なのである。
知多郡の南端や北端からお上に用事があってこの地へやってくることは大変難儀なことであった。交通機関が未発達な明治期の記録を見ると、南の村々から船便で武豊へ到着し、武豊線に乗り換えて半田駅で下車というのだから大変な苦労である。西の村々からは足ごしらえをしっかりして徒歩で幾里もの道程をやってくるわけである。そんなことで、郡役所へ出掛けるということは一日仕事どころか何日もかかる大仕事であった。
 用事が済んでもすぐには帰れない場合もあり、出来れば郡役所に近いところで一泊したいと願う人達も多いに相違ない。郡役所の直近に木造3階建ての旅館が繁盛したのも理解できる。それがこの「加登屋」である。現在でいうならビジネスホテルであろか。
 そして、文化の中心が「同盟書林」である。この書肆は知多半島最大規模の書店であり、本の出版やそのほかの印刷もこなしていた。現在でも知多郡内小中学校の教科書を文科省から一手に引き受けて配布しているのがこの同盟書林なのである。



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半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第10回

2012年6月22日(金)
半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第10回 光照院

 <聖観(しょうかん)世音(ぜおん)菩薩(ぼさつ)立像(りゅうぞう)> ( 半田市指定文化財<彫刻> )
  像高 107cm
 松材の内刳り(うちくり)のない一木造(いちぼくづく)りで、藤原時代の特色をそなえた地方作の典型的仏像であり、藤原期から鎌倉時代にかけて制作されたもののようである。
 両手に補修がなされているが、秘仏として開扉されなかった為、保存状態我良く当地としては優れた遺品のひとつである。台座や持ち物は後補である。


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半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第9回

2012年5月25日(金)
半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第9回 業葉神社
<中村組 神輿(一基)附 神輿取建講中帳(一冊)>
            (半田市指定有形民俗文化財)
神輿のサイズ  高さ  120cm(鳳凰部分は含まず) 最幅 112cm  基壇  82cm×82cm
半田市下半田地区の中村区所有の神輿で、古来から縁起がよい動物とされている鳳凰、龍、麒麟(きりん)、亀の「四端(したん)」が付いている。屋根は漆塗りで金箔が施され、鳳凰と飾燕がつけられている。
附文書の「神輿取建講中帳」によると、何人かの船主によって海上安全、海難除けの願いを込めて文化13年(1816)に奉納された神輿であることが明らかであり、それが指定の大きな要素のひとつとなっている。海運で繁盛し隆盛を誇った下半田らしい出来事であろう。毎年、祭礼で4台の山車に警固されて、神輿が業葉神社と山之上社との間を渡御する。



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半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第8回

2012年4月27日(金)
大富豪の邸宅が櫛比していた町並み

@ 小栗三郎家
A 末廣本店
B 小栗喜左衛門家
C 小栗七左衛門家
D 中埜半左衛門家
E 中埜半六家
F 小栗冨治郎家

B小栗喜左衛門家
現在の「魚太郎蔵のまち」の場所とその南付近にあった。明治23年第一回陸海軍大演習の時は文部大臣榎本武揚の宿舎を務めた。

C小栗七左衛門家
小栗家の本家筋にひとつ。元禄の初め頃三河国から半田に移住、海運業で産をなした。
 阿久比川の治水をかねて元禄八年、山方新田を同族の小栗三郎左衛門と共に築造。溜池として矢勝谷に半田池を築造し、矢勝川、十ヶ川経由で用水を山方新田に導く大工事を成し遂げた。

D中埜半左衛門家
中埜一統の本家。安永元年(1772) 半田に生まれた六代目が庄屋として善政を敷く。酒造業も手がけたが、大地主として盤石の地位を築く。長期にわたって半田の指導者を輩出する。大演習時は宮内大臣土方久元の宿舎を提供。
昭和12年半田、亀崎、成岩3町が合併して市制を敷くや初代市長に当選、昭和21年3月まで戦中の難しい時期の市政に取り組む。市長を務める傍ら昭和17年4月の第21回総選挙で衆議院議員に当選、国政と市政に尽力した。

E中埜半六家
中埜半六家は代々の半田の富豪である。享和3年(1803)から内海村の前野小平治らと共に尾張藩御用達在郷十人衆に選ばれた尾張でも抜きんでた名家である。
六代目半六は小鈴谷村の森田家から養子に入った人で、盛田久左衛門の息子であるから幕末の有名な盛田命祺の兄ということになる。この六代目は名古屋の秦滄浪に経学を学び、帳簿その他事務の整理が巧みであった。自分が考えだした簿記法があり、現在の複式法に似ているという。小栗冨治郎家や井口半兵衛の諸家に伝わったという。
大正の初め頃、現在の知多半田駅近くにドイツ風別荘を建てた。それが現在「中埜家住宅」として国の重要文化財(建築物)に指定されている。
大演習の時は明治天皇の御典医の宿舎であった。

F小栗冨治郎家
中埜半六の小僧から一代で巨額の財産を築いた立志伝中の人。 
父喜七は中埜半六船の船頭であった。冨治郎は幼い頃半六の小僧となり商売を学んだ。半六は冨治郎の才能を見込んで父喜七のあとを継がせて船頭に抜擢した。18才の時のことである。初めて江戸へ航海したとき、江戸に父親の借金が多くあって、それを返済したら帰り荷が買えない状態に陥った。
冨治郎は空船で帰ることをよしとせず、運を天に任せて蝦夷を訪れ、残りの米などの荷物をそっくり乾鰯などの肥料と交換し、また、なけなしの金をはたいて肥料(乾鰯)を買えるだけ買い込んで帰路についた。折から農業にも商品作物化の波が押し寄せていて、農家が金肥を使うようになっていたため、蝦夷から積んで帰った肥料が飛ぶように売れたという。この一航海で多額の父親の借財を返済したばかりか、巨額の収入を上げたという。
32才の天保7年(1836) 船頭をやめ蓄積した巨額の冨を利して、醸造、海運、金融に経営を始めた。番頭として後の亀崎の指導者井口半兵衛が冨治郎の指導を受け、後に独立して亀崎の財閥になるのである。
経営方針として「天事のこと三足を張れば転倒せざるが如く、一過もまた三業を要す。一業若しくは二業なれば一業にして失敗すれば忽ち危険となるを免れざるを、若しくは三業なれば一業失敗するも他の二業之を支持することを得べし。故に余は船、酒及び金貨の三業を以て鼎足(ていそく)とすと」また、家人を諭(さと)して「利益ある時は益々節倹を思ひ損失ある時は寧(むし)ろ放心すべし」と話したという。
また、本人は百萬の資産を有しその実力は輝かしいものがあるにもかかわらず、尚謙虚で人後に立ち奢らなかった。また、主家である中埜半六家を訪れるときは、必ず綿服に藁(わら)草履(ぞうり)を履き、勝手口からしか上がらなかったといわれる。
彼は明治23年1月に86才で亡くなったので、大演習に際して明治天皇がお泊まりになり、その日は大本営となった当家で接待をしたのは息子の2代目冨治郎だということになる。


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半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第7回

2012年3月23日(金)
小栗家住宅 <国指定登録文化財>

 江戸期から明治にかけての豪商小栗三郎家(三郎兵衛という時期もある)が
それである。道を挟んだ東側の小栗家から分家したといわれている。碧海郡に
小栗新田を開いたことでも知られる。現在旧店先を「半田市観光協会」が借用
しているが、平成16年、次の八つの部分に分けられて国指定登録文化財として
の指定を受けた。
 小栗家住宅主屋(明治3年築)、小栗家住宅表門(明治前期)、小栗家住宅
辰巳蔵(明治前期)、小栗家住宅書院(明治前期)、小栗家住宅茶室(明治期
前期)、小栗家住宅渡廊下(明治前期)、小栗家住宅北座敷(明治前期)、小
栗家住宅離れ(大正4年)。
 当家には数多くの話題が残されているが、今回はふたつの話題を紹介する。

(1)慶応3年、お札降りがあった
 慶応3年9月25日夜半に天照皇大神宮のお札、26日早朝には熱田神宮のお札が
更に数日後にもう一枚の降札があった。小栗家では目出度いことだと考えて早
速仮社殿を店に造り、御神酒、鏡餅を供えて10月3日頃までお祀りをしたところ、
近所だけでなく遠方からも多くの人々が昼夜を分かたず参詣に訪れた。小栗家
ではそれらの人々に夜は篝火を焚き酒を振る舞ったり、食事を出してもてなし
たりした。人々は酒に酔い神楽獅子や思い思いの芸で踊り続けるのであった。
有名なお札降りがあった家のひとつである。

(2)第一回陸海軍大演習前夜の参謀総長有栖川(ありすがわ)熾仁(たるひと)
親王殿下の宿舎
 明治23年3月30日夜、明日の半田町、亀崎町乙川での陸軍の演習に供えて、
参謀総長を務めた明治天皇の従兄弟君、有栖川(ありすがわ)熾仁(たるひと)
親王の宿舎となってのが小栗邸であった。有栖川宮は副官の川上繰六陸軍少将
を伴って宿泊した。小栗家では有栖川参謀総長には会議用の大部屋を含めて3部
屋を、川上少将には2部屋を提供すると共に、その他お付きの佐官5名、尉官4名
の全てに一部屋ずつ提供したというから、いくつ部屋あるのだろう。当時の御
当主小栗三郎兵衛氏は筆まめな方であったから、この出来事の詳細な記録をつ
けられた。その一つに殿下に差し上げた夕食の献立がある。献立も含めて抄録
する。

三月二十九日 朝曇 五十七度K

1,有栖川宮殿下 来宅
1,川上少将 小川大佐 川村大佐等到着
1,名古屋第一警察署巡査 島田藤市(警護)
1,夕めし献立
  皿 大鰻長焼  汁 白切身
  平 ソップ 鳥スキ丼
  ふき 小口人参煮
  御飯 切込玉子大巻 刺身
  吸物 むし

三月三十日
1,殿下献立
  向付 汁 平飯 切込 海苔
  刺身(黒鯛) 吸物 蒸し蛤
  みかん
1,川上少将 小川、川村大佐以下
  馬で武豊へ
  天皇に従うため弁当は(鳥肉入りゴモクメシ)握めし五つずつ竹皮包にて
  十五人前
1,芸妓 午後二時より午前一時まで

三月三十一日  朝 大雨 演習当日
1,殿下は 朝 牛乳 半じゅく玉子 家僕がつくる
1,陛下は午前十一時五十分 御還御
  御昼食の上 午後二時三十分 汽車で名古屋へ
1,殿下 頭巾を忘れ 名古屋より入電
  ズキン スグ ヲヲクリ タノム(以下略)


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半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第6回

2012年2月24日(金)
半田運河(蔵の町の景観)

 現在では醸造蔵の黒色を穏やかな水面に映している半田運河には次のような
歴史がある。半田町の中心である下半田一帯は阿久比川の氾濫によって土が堆
積してできあがった土地からなり、近世以降に人々が住み始めて町が成立した
新興住宅地である。度重なる阿久比川の氾濫によって住宅への浸水や道路の泥
濘化に悩まされていた下半田の為政者の最大課題は「阿久比川の治水」という
ことであった。
 阿久比川改修の年代は明らかではないが、半田町史によると諸般の事情(半
田村浜新田・乙川葭野新田開拓等)から考えると万治(1658〜1660)・寛文
(1661〜1672)の頃、現在のように90度に屈曲させ衣ヶ浦へ流し、<別の説に、
元禄時代(1688〜1703) 小栗三郎左衛門、小栗七左衛門が山方新田を築造し
て阿久比川を東へ曲げたというのもある>、更に阿久比川や付属支流の悪水を
排除させるために十ヶ川を開削し、更に、上半田と岩滑村の悪水が十ヶ川に奔
注し排除が不可能となったので五番川を開削したといわれているが、半田運河
(船入江)が現在の姿になったのは次のような災害に遭遇し、下半田が大被害
を受けた事がきっかけとなっている。
 安政2年(1855)8月未曾有の大水害が発生した。洪水は白沢あたりから阿久
比川本流に沿って流下し、岩滑村内浜から下半田に流入して下半田全部が浸水
した。下町通り(富豪の集まる町)で床上3尺浸水という。十ヶ川、五番川の
堤防も各所で決壊しあふれた水は船入江に入り、内浜から来る激流と合わさっ
て坂登屋の酒蔵を倒すなど付近に大きな被害をもたらした。
 その損害が余りにも大きかったことから、それまで東進したり、山方新田の
中を流れていた十ヶ川と五番川の水を船入江に注ぎ込むと共に、船入江を拡張
して悪水排除をすべきだという意見が市井から起こった。当時、下半田に住ん
でいた庄屋三代目中野又左衛門は率先して上半田の山崎の地に住まいを移転す
ると同時に、災害の起きた8月中に船入江改修の出願を代官所へ提出した。
 当時の船入江の幅はわずか6、7間(10.8〜14.4m)程しかなく、十ヶ川と五
番川の悪水を排除することは不可能であった。三代目中野又左衛門は阿久比の
諸村と岩滑村の了承を取り付けると共に、山方新田の一部を幅18間(32.4m)
長さ315間(567m) にわたって開削し東方に流れていた十ヶ川と、山方新田の
中を流れていた五番川をまとめて新しい船入江に流し込むようにしたのである。
これによって洪水の危険はほとんど解決し、その上、広い船江が出現した。治
水と海運の両面を一挙に解決した大事業ともいえるものであり、近世末以降の
半田発展の原動力になったと言っても過言ではない。
 この功績によって三代目中野又左衛門は尾張藩から一代限りの名字帯刀を許
されている。
 

源兵衛橋

 山方新田と下半田を結ぶ橋。源兵衛が架けたかどうか不明。


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半田市内の文化財探訪 その8(半田東地域)の第5回

2012年1月26日(木)
中埜酢店(現ミツカン酢)

 「ミツカン」の商標で全国にその名を轟かせ、醸造酢では全国の70%以上の
シェアーを誇る中埜酢店の操業は文化年間(1804〜1817)の初め頃と言われて
いる。その操業にはこんなエピソードがある。
 ミツカン酢の創業者、初代中野又左衛門(1756〜1830)は酒造業小栗喜左衛
門の息子で安永8年(1779) 五代目中野半左衛門の娘くのの婿となった。彼
はくのの弟である半左衛門の跡取り七三郎(七代半左衛門)が幼少であったの
で半左衛門家の家督を預かっていたが、成人した七三郎に家督を引き渡したあ
と別家し自分も酒造業を始めた。
 彼は、文化元年(1804) 白子屋の間瀬利兵衛とともに江戸へ出かけた。こ
れは、自分が独立して再出発する機会に江戸の様子を調査するつもりだったの
かもしれない。ところが、この江戸旅行が彼の人生を変えるきっかけになった
のである。
 江戸ではこの頃、江戸湾で捕れる魚を使って「鮓(すし)」<江戸前寿司>が
作られ始めていた。江戸の町並みのそこここにあった鮓屋の存在が又左衛門の
心をとらえたようである。博物館「酢の里」の説明によるともう一つのエピソ
ードがそれに絡む。帰郷した又左衛門がある雨の日、野積みに放置されていた
酒粕の山から滴る雨水を何気なく嘗めてみたところ「酸っぱかった」ことで、
酒造業で多量に出るが肥料にしかならなかった酒粕から醸造酢を製することに
気づいたというものである。
 酢造りが快調だったことが中野家の酢造り関係最古文書「酢屋(すや)店卸
帳(たなおろしちょう)」からも分かる。文化7年(1810) という年は江戸積
みの酒の値段が大きく下落した年であったが、その年には既に酢造りを行って
いたと書かれており、更に、酢造りは快調で最初の9ヶ月で107両余の売り上
げ、文化10年(1813) には232両、文政18年(1828) には1000両を超
える売り上げがあったと書かれている。
 又左衛門は酒造では「増(ます)蔵屋(くらや)三六」と名乗っていたが、
酢造りでは「酢屋勘治郎」という屋号と「丸勘(まるかん)」の樽印を使ってい
た。文化13年に二代目に家督を譲ったが経営は順調で天保9年(1838) には
4000両を売り上げ、1000両の利益をあげている。
 三代目又左衛門になると元治元年(1864) の売り上げは二万両に迫り、こ
の年には酒造業をやめて酢造り一本に切り替え安定した経営がなされるように
なり、我が国津々浦々に知れ渡る大産業に成長するのである。

中埜銀行跡(現在はミツカン酢研究所)

 明治に入って産業革命の大波が当地へも押し寄せてきた。江戸時代に醸造業
と海運で巨万の富を得ていた多くの実業家達は争って近代産業に資本を投下し、
当地の産業活動は隆盛の一途をたどっていった。それに伴い商業活動も活発化
し知多商業会議所(半田商工会議所の前身)が現在の半田商工会議所の東あた
りに設立された。
 産業の発展は金の動きを活発化しいくつもの銀行が開業した。明治14年
(1881) 半田銀行、明治26年亀崎銀行、明治34年(1901) 中埜銀行が設
立された。ここがその中埜銀行の跡である。ちなみに、外部資本によって第百
三十六国立銀行(政府認可の為替を取り扱う銀行)、三井銀行半田支店が開業し
ている。


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