

2026年7月6日(月)
就職活動で鉄鋼、ガラス、半導体など材料に関わる企業を視野に入れ、川崎製鉄㈱(現JFEスチール㈱)に会社訪問した際、イキイキと働く社員の姿が印象深く、同社を志望した。製造拠点の東日本製鉄所千葉地区からスタートした社会人生活は、京浜地区を経て現在の知多製造所に至る。溶鋼がいくつもの工程を経て、最終製品である鋼材になっていく流れに沿うように、自身も歩を進めてきた。
「溶鋼を高温で精錬してから固める鉄鋼生産プロセスの「上工程」の部署に配属された際、現場の操業条件を変えながら製品開発や品質改善のための実験を繰り返してきました。仮説を立てて検証を重ねる作業では、計算通りに行かない、理論通りの成果が得られないなど想定外の現象が起こります。没頭するタイプの私は、現場データを確認したり過去の文献を読み込んだりし、時には新しい発見にも出会いながら、夢中になって仕事に向き合っていました」
実験結果によっては、共に実験を行うオペレーターや会社に大きな負担をかけてしまうため、責任は常に付きまとった。反面、自由に色々なことに挑戦する権限を与えられたことに感謝している。その責任と権限の重さに押し潰されそうになった時も、『任せていただいている』という思いのもと、エンジニアとしての使命を果たしてきた。入社間もない社員にも、自ら考え実践することを後押しする上司や先輩に導かれ、躊躇せずに新しい一歩を踏み出す機会に恵まれた。イキイキと働く姿は、かつて会社訪問で見かけた先輩社員を彷彿とさせ、挑戦を推奨する社風が育んできた伝統でもあるようだ。
「入社3年目の頃、新たに操業を開始したプロセスの操業担当チームの一員になりました。メンバーが協力して、これまでにない全く新しい製造プロセスを構築し、生産性向上、コスト低減、品質改善などを図り、『大河内賞』を受賞しました。このチームに参画出来たことで、改めて『責任と権限』の重要性を実感しました。思い出深い仕事の一つです」
製造技術開発分野の卓越した業績を顕彰する『大河内賞』の受賞は、大きな励みとなり、仕事に真正面から向き合うための大きな一歩となった。同時に、現場を的確に見ることの大切さも学んだ。入社直後、所内に掲示されていた『真実は現場にあり』という言葉が腑に落ちたという。現場とは、販売担当者であればお客様との対話の場、研究開発部であれば研究室など、実際に物事が起きている場所を指す。そうした現場で多くの人と連携しながら仕事を進めることが、やりがいの創出や成果の獲得に繋がると語る。多くの人の協力を得るためには『誠実』であることが不可欠であり、当時の経験や学びは、仕事に対する基本的な考え方として今も生きている。当日の取材に同席した社員からも「所長は私たちの名前を当たり前にご存知で、何でも自分事として捉えられていて、“ここはどうなっているの”と寄り添ってくれます」と、社員との連携や誠実な姿勢が語られた。
「2012年、知多製造所に企画室長として赴任しました。それまで製造部門一筋だった私にとって、全体戦略を立案し推進するポジションや、鋼管(パイプ)の製造という分野は初めてでした。着任直後は明確な抱負を持っていたわけではありませんでしたが、俯瞰的に製造所全体を見ることが出来る立場にあったため、1年ほど経つ頃には知多製造所の課題が見えてきました。例えば、当所の『強み』を活かしながら、あるべき姿の実現を目指し、製造部長時代には施策を進めてきました。現在、当所で働く従業員は約2,700名で、当社の他地区と比較すると小規模な組織であり、製品の取り扱い量も社全体で占める割合のなかでは高くありません。一方で、スリムな組織であるため連携が取りやすく、迅速に意思決定・行動ができます。また、パイプ製造に特化している点は、全社的に見ればエッジ(端)に位置する特徴です。新しいことに挑戦するには、所帯が小さくエッジにある方が取り組みやすく、これらは当所の強みです。会社は責任を果たせば、挑戦するための権限も与えてくれます。私自身、このような環境の中で大きなやりがいを感じていますし、メンバーにも働きがいや、やりがいを感じてもらえればと思っています」
メンバーとの関わりにおいては、適度な距離感を保ちながら支援の手を差し伸べる。「器用なタイプではないため取り繕うことができず、時には生まれ育った京都弁が出てしまうなど、いつも自然体です」と柔らかく語る。心は柔和に、仕事に対しては自らに厳しく向き合い、『責任と権限』そして『誠実』を貫く姿勢は、自身の生き方そのものである。
●ちょっと一息●
中学時代から山登りを始め、日本百名山踏破を目指して日本各地の山に登ってきた。現在は単独、あるいは家族と共に日帰りや山小屋泊で楽しんでいる。登頂までには大変な思いをすることも多いが、山頂からの景色はそれらの苦労を忘れさせてくれるという。北アルプスの最高峰『奥穂岳』にも登り、「やはり山はいい」と語る。旅行も趣味で、時間を見つけては一人旅や家族旅行を楽しんでいる。新たな発見や異文化に触れることで刺激を受けている。何もせずに過ごすことが苦手な性格で、ちょっとした時間があれば『数独』に挑戦している。仮説を立てて検証することが好きであり、解けた時の達成感は格別だという。
知多製造所に勤務してから単身生活を続けている。最近は家族が半田を訪れる機会も増え、スイーツ巡りやサイクリング、近隣の名所巡りなどをともに楽しんでいる。単身生活も14年経過すると慣れてきたが、炊事は依然として苦手で、外食や妻の作り置きに頼っているという。単身生活で一人の時間が増えたことで読書の機会も増え、それもまた充実した時間となっている。
プロフィール:1968年京都府生まれ。半田市在住。93年東京大学大学院工学部材料学科修了。同年川崎製鉄㈱入社、東日本製鉄所(千葉地区)製鋼部配属。2004年東日本製鉄所工程部計画室、09年東日本製鉄所(京浜地区)製鋼部製鋼工場長、12年知多製造所企画部企画室長、15年知多製造所製造部長、18年本社鋼管企画部、19年知多製造所企画部長、24年現職。半田商工会議所常議員。
2026年6月1日(月)
子どもの頃、科学雑誌や理科の実験に興味を持ち、つくば万博で見た科学技術に感動し、それに関連するような仕事に就けたらと望んだ。大学院修了時、メーカーの研究所に就職する同級生も多くいたが、学んだことで社会の基盤を支える仕事をしたいと同社に入社、岐阜支店岐阜電力センターに配属となった。
「最初の2年間は町中や山間部に建つ鉄塔の点検などの保守業務、その後の2年間は送電線の設計・工事業務に従事し、現場の基礎を学びました。まちの発展に必要な電力を送ることのできる送電線を建設するのですが、設計では送電線の太さ、鉄塔の高さや強度、基礎の大きさや敷地面積、そして予算を決めていきます。その後、行政との調整や工事業者を選定し施工管理を行います。岐阜では2件の工事を完工し貴重な経験ができました。仕事は、現状を把握し、計画を立て、周りの人の協力を得ながら調整をし、ゴールに向かって進むスタイルが基本です。入社して3年目の私に、ものを造ることを通して仕事の進め方を教えてくれた上司と出会えたことは幸運だったと感謝しています。同時に、形として残る仕事は印象深いものです」
その後、工務部では送電線の研究(風圧に耐える特殊な電線の開発等)、送電業務の指針や手引の作成(電線に流せる電流の容量の決定等)に関わった。原価グループでは電気料金の算定業務に従事し、国への申請にあたり霞ヶ関の経済産業省に『なぜ、原価がこうなった?』と問われた時に妥当性を説明した。そして東京支社では、災害時の停電の復旧計画を求められた時に、作業工程を具体的に説明した。大学で学び、現場・技術系畑で働いてきた知識やスキル、経験が活きた。
「私もそうですが、とかく技術者は自分の発言が正しいと思いがちです。しかし、誰もが一生懸命頑張り、色んな考えや想いを持って仕事をしています。ですので、人と接する時は相手の話を良く聴くように努めています。三重で初めて組織の長になった当初は、他グループから質問されると、つい自分が動いて対応してしまっていました。ずっと担当でいたので、その癖が抜けなくて(笑)。部下の能力や性格、適性に応じた役割があり想いがあると反省し、聴くことの大切さを実感しました。また、私
が入社数年で鉄塔を建てたのは自分だけの力ではなく、未熟な私を上司がしっかりフォローしてくれたおかげでした。私も部下には、上司がしてくれたように部下の将来を考え責任感を持って臨んできたつもりです」
入社して30年余が過ぎた。その間様々な仕事に携わったが、2021 年11月に制定した『中部電力グループ経営ビジョン2.0』を一番印象深い仕事として挙げる。2050年の社会像を見据えて、想定されるエネルギー・環境政策、経済、社会、技術の変化に向けて、持続的な成長を実現するための取り組みを具体的に表し、同社の目指す姿を示している。安心・安全、脱炭素、分散・循環型社会に挑戦し、『社会の基盤を支えたい』という入社動機の熱い想いも込められている。
「今まで私が経験してきた全てを踏まえて記してきました。ビジョンのような夢のある目標は簡単には達成できませんが、背伸びすれば手が届くような、ストレッチゾーンの目標に向かって努力することで近づけると思います。頑張って挑戦し不可能と思っていたことも可能になれば、それぞれの成長にも繋がります。形に拘る方ではありませんが、ビジョンが明確になれば仕事がし易くなり、みんなと一緒に一つずつ形にしていくことは嬉しく、やり甲斐もあります」
2020年に送配電事業会社として中部電力㈱から分社化した中部電力パワーグリッド㈱の半田支社長に着任し1年が過ぎた。エリアとする知多半島、名古屋市南部は、日本の縮図のような地域だと語る。人口増加のまち・過疎化が進むまちもあり、商業・工業・漁業・農業・空港などあらゆる産業の中で仕事が経験できる、若手にとって最適な支社と評する。新入社員時代に上司から学んだ「安全に安定した電力を送り続けること」、「新たな技術やルールを取り入れ、ワクワクする新しい取り組みに挑戦し、より安全で安価な電力を送ること」、その『不易流行』の精神を社員に引き継ぎ、活躍してくれることを期待し楽しみにして
いる。
「3年前、支店・電力センター・営業所機能を統合した組織改定により、半田支社として生まれ変わりました。送電線・変電所・配電線の計画・建設や維持管理、お客さまへのご対応等、部署毎での仕事ですが、同じ電気を送る仲間が融合して効率化を図り、互いに支え合いながら職務に向き合っていただきたいと思います。そのためには安全・コンプライアンスの徹底、社員の健康を守って、始めてスタートラインに立てます。そこに課題があればなんでも言ってもらえる風通しの良い職場にしていきたいと思っています。全体最適を実現した上で、プラスα の取り組みができればとても嬉しいですね。今までは電力センターでの仕事の記憶から鉄塔に目がいきがちでしたが、今は電柱が気になって、街中でも空を見上げています(笑)」
数年で部署が変わり、常に新しいミッションが与えられた。どんな時も果敢にチャレンジし、社会に貢献できるようにとベストを尽くしてきた。技術開発や工夫により安価で安全・安定・高品質な電気を送り、社会の基盤を支えたいという想いは、入社したその日から変わらない。
●ちょっと一息●
19年前から大府に住んでいますが、知多半島を訪れたのは海水浴や魚の美味しい海辺のまちで、半田には目が向いていませんでした。実際来てみると歴史と伝統があり、住んでいる人も自分のまちが好きで、私の故郷、桑名と似通った点が多く、懐かしく大好きなまちになりました。ゴールデンウィークにロータリー仲間から誘われた『亀崎潮干祭』は、地域の繋がりを強く感じ、その勇壮華麗さに魅せられて、半田の素晴らしさを再認識しました。
好きな技術、理系に進んだものの、なぜか良い点が取れたのは国語や世界史で、歴史小説を読むのが好きです。小学校の頃の『三国志』に始まり、司馬遼太郎の『坂の上の雲』、社会に出てからは塩野七生の『ローマ人の物語』や宮城谷昌光の『晏子など数々の歴史小説を夢中になって読破しました。趣味の旅行でその小説の舞台を訪ねることが多く、3年前には会社のリフレッシュ休暇を利用して、『ローマ人の物語』の舞台、イスラエルとスペインを旅しました。マサダの要塞、アルハンブラ宮殿など、その歴史背景を知って行くとまた違った角度から見ることが出来て、旅はより意義深いものになります。自分の住んでいるまちの良さや課題の発見や、自分のことを振り返る機会にもなるので、若い時に旅に出ることをお勧めします。私も旅に出て色々なことを感じてきましたが、もう少し年を重ねてからの旅は家族のためのものにしたいと思います(笑)。それもまた楽しいものでしょうね。
プロフィール:1968年名古屋市生まれ。幼少時知多市に住み、小学校以降は三重県桑名市で暮らし、現在は大府市在住。93年筑波大学大学院理工学研究科修了。同年中部電力㈱入社。岐阜支店岐阜電力センター配属、97年本店工務部技術開発グループ、99年本店工務部送電グループ、2001年本店経営戦略本部原価グループ、05年東京支社、08年三重支店技術部送電課、20年本店経営戦略本部戦略グループ、23年本店技術開発本部技術企画室、25年現職。当所常議員。
2026年5月7日(木)
交通・運送・不動産・レジャー・流通産業など多角的な企業展開に関心を持ち、1989年名鉄グループの中核的企業の名古屋鉄道㈱に入社。大学で専攻した地球物理学関連の就職を視野に入れたこともあったが、考えた末に、地元、名古屋で社会人の第一歩を踏み出した。
「乗り物が好きだから鉄道会社という思いもありました。当時の研修期間は3年間、新岐阜駅(現名鉄岐阜駅)で駅員としてスタートし、車掌、サービスエリアのレストランや旅行センター勤務などであっという間に1年は過ぎて行きました。それまでの“2年目から関連会社へ研修出向”という流れから、助役として駅勤務というコースも始まっており、新一宮駅(現名鉄一宮駅)で助役として勤務しました。当時の一宮駅は名鉄とJRの共同使用駅であり、出札・改札業務が複雑で、多くのJRの駅名や運賃制度、切符の種類を覚えるなど苦労もありました。その上、駅長の代理を勤める職務に向き合うことは大変でしたが、若くて多少の徹夜くらいは平気であり、非番の日にはそのまま駅の人たちと色々な所に遊びに行き、楽しい時代でもありました」
1992年鉄道事業本部(本社)に異動し、その業務は運輸省(現国土交通省)の窓口のような役割もあり、国会が始まれば、運輸省からの質問に対応するため夜中の2時、3時まで電話の前で待機も多くあった。他にも、いざ運賃改定業務が始まると、その状態が半年以上続くこともあった。その後、名鉄全体の予算編成や実績の分析など、多くの部署の勘定科目ごとに分析・把握する業務に就いた。ありがたいことに理系出身でもあり、数字や分析に関する関数に対する大きな拒否感もなく、当時、普及途上であったコンピュータも学生時代から使っていたこともあり、その経験に大変助けられた感もあったと語る。
「その後のICカードmanaca(マナカ)の導入も印象深く残っています。名古屋市との共同開発の窓口、ICカード発行会社(現㈱エムアイシー:旧名鉄ICカード㈱)の立ち上げ・登記といった業務も担当しました。知らないことばかりで、夜間、資料に「なんだ、これ?」という部分を見つけるたびに、翌日の朝一番で公証役場、東海財務局などに顔を出したりしていました。その後、当地域内のICカードとの相互利用サービスを開始するために調整・協議の相手は広がり、更に全国相互へと拡大していきました。manacaは後発だったために、やり甲斐というより、考える間もなく追われるまま、全国の流れに付いていくことで必死でした。それまで限られたエリアの仕事が多かったのですが、付き合いの範囲は仕事の拡がりと比例して全国に広がりました。ここで多人数での調整というものも経験することになりました。普段は友好的なお付き合いも会議では忖度なく、「沈黙はYES」を体感しました。100人ほどが一堂に会することもあり、課題解決は早いのですが、『NO』ははっきり言うべき、代表として会議に出席する責任を再認識しました」
2012年に名鉄バス㈱に出向。以降、予算・企画・運行と幅広く関わり、安全統括管理者の責務も負った。当時、地域公共交通会議が制度化されて間もない時期で、構成員となる地方公共団体、学識経験者、住民代表等と直接協議する場に、公共交通事業者として参加したことは、大きな財産になった。現在も半田市地域公共交通会議の委員として、住民生活に必要な輸送の維持・確保、公共交通の利便性増進のために尽力する。
「現職に就いてこの6月で1年になります。現時点で知多バス運行路線をすべて乗っているとは言えず、範囲を知多半島に広げると、恥ずかしながらまだまだです。会社の状況はと言えば、当然ながら、ドライバー不足は一番の問題です。路線や運行本数を維持することに苦労している中、お客様の要望にどう応えていくのかは大きな課題です。コミュニティバスのエリア増や増便のご要望にも応えきれていないのが実情で申し訳なく思っています。また、近年は貸切バスでの遠足も少なくなり、バスで出かけるという選択肢を持たない方も増えていると感じています。まずは、子どもさんにバスの中に足を踏み入れていただくのは大切なことと考えています。色々な知多半島中のイベント等でも、ご協力出来たらと考えています」
これまでの多くの人々との出会いは財産であるが、それぞれの局面でのふるまいは百人百様である。当たり前のことだが、仕事モードの時は、忖度なし、明確な意思表示が必須であると強く経験した。その後は、部下にも同行を求めたり、時には代理としての出席依頼時も、「想定外のことや不明な点があった時、『NO』だけは言ってほしいと伝えていた」と強調する。
「昨年1月末に本社機能をクラシティに移転し、目の前に知多半田駅を眺めることが出来ます。この付近には名鉄グループ企業(名鉄知多タクシー、名鉄イン知多半田駅前)があり、委員としても中心市街地の活性化を心待ちにしています。まちの景観が変われば人の流れも変わってきます。人が動くのは血液が流れるのと同様で、まちにとって重要です。そのためにどうすべきなのか?様々な課題が山積する中で、交通事業者として、その一助となるように切望しています」
目の前の仕事に直向きに取り組むその姿勢は、どんな立場になっても変わらない。
●ちょっと一息●
多くの男の子のように、乗り物が好きということもこの世界に入った一因でもあり、今も乗り物好きです。名鉄バスに携わってから年に1、2回はバスツアーに参加し、関西万博もバスツアーを利用しました。乗っているだけで目的地に連れて行ってくれて、駐車場を探す手間もなく、車内でビールも飲め(笑)、楽です。名古屋から東京までのバス移動も、景色を眺めながら、6時間という時間も何の苦にもなりませんでした。
半田は名鉄主要駅の知多半田駅があり、当社赴任前から数えきれないくらい来ているまちです。今で言う『映える』場所がいっぱいあるまちと感じています。雨上がりの運河沿い倉庫群を見た時はギョッとするくらい綺麗で、感動しました。まずは知多バスが運行するまちをしっかり見たいと歩いています。時間があれば目的地に向けてアプリに身を任せたり、道を一本外したりして歩いています。先日、沿線ではないのですが「上野間から富貴までなら、すぐ着けるだろう」とたかを括って夕方5時くらいから歩き出しました。山の中の道を案内され、スマホの明かりを頼りに歩きながら「この先に道はあるのか?遭難したらどうしよう」とスマホの電池切れを心配しながら、富貴に着いた時は生きた心地がしませんでした。色々な場所を見てみたい、努めて好奇心を持つように心がけています。(写真は好奇心の一環で、遊べるものは触ってしまいます。日間賀島のブランコは対岸まで飛ぼうと漕いだり、LUUP試乗も一番乗り!)
1965年名古屋市生まれ、在住。89年京都大学工学部卒業。同年名古屋鉄道㈱へ入社し、新岐阜駅に配属。92年鉄道事業本部(本社)、2012年名鉄バス㈱課長として出向。部長・取締役・常務を経て、2025年6月現職。半田市地域公共交通会議委員、半田市中心市街地活性化協議会知多半田部会員、半田交通安全協会会長など多数。当所常議員。
2026年3月31日(火)
2010年4月、人生の糧の“始まり ”だった。ご主人と一緒に居酒屋らんの開業、長女の誕生、そして「横の繋がりが出来るよ」と青年部入会の誘いを受けた。長年の友人(青年部メンバー)からも「籍だけでも入れておいたら」と言われ、「有意義な会だから熱心に薦めてくれるのだろう」とその言葉に従った。だがスタートしたばかりの家業と子育ての両立は、思いのほか時間も取られ苦労も多かった。
「5年ほどのスリープ期間も、誘ってくれた友人がメンバーと一緒に店に来てくれ主人と仲良くなり、人見知りの私とも気楽に話をしてくれて、青年部に関わりやすい環境を作ってくれていました。でも参加できていない罪悪感もあり、退会しようと何度も考えたこともありました。店の営業に差し障りがなかったら、自由にしていいよという主人に背中を押され、両親に子どものお世話をお願いし、少しずつ仕事終了後や定休日に青年部活動に参加するようにしました」
『青年部が好き』と公言し、日々の活力にもなっているが、2020年常熱交流委員会時代はコロナ禍で事業活動の自粛により何も出来なかったが、卒業式の設営を通じて仲間と繋がり、有り難さを感じた。この年度がきっかけとなり翌年総務委員長に就任し、かつて感動したメンタルトレーナー・大嶋啓介氏の講演を、委員会の研修事業としてカタチにしようと行動を起こしたが、講師料の予算が足りないという現実に突き当たった。補助金を受けようという委員の助言・講師の日程調整・会場設定等をメンバーたちと検討を重ね、市民に向けた講演会は大成功を収めた。「講演会よかったね。由香里さんが会長もありだよね」「そろそろ女性会長を出さないとね」という声が、沸き起こってきた。
「それまでは“ノリ”で言っているし、私のことじゃあないよねと思っていて、2年位前から真剣に言われても断り続けていました。でもある時逃げているだけではダメで、きちんとその声に応えなければいけないと思いました。また『やっておけば良かった』と後悔しないかなと自分と向き合い、言葉をかけてくれるのは有難い、受けようと決心しました」
初めて委員長を引き受ける時も、会長の要請があった時も、由香里さんが役に就くことを了承するように、メンバーたちがご主人を粘り強く説得した。メンバーとご主人の関係も良好で、日々の会話から青年部活動を理解しているご主人にとって、『了承』は成長していく由香里さんを応援する証だったようだ。
「スローガンは『今を楽しみ、未来を描く』です。諸先輩からの教え等を基本方針に反映し、得意・不得意を足し合おう。人から学ぼう。自ら臨もう。みんなに活躍の場をつくろう。感謝を伝えよう。大きな挑戦を、みんなで成し遂げようということを大切にしていきたいと考えます。7つの委員会(総務広報委員会、研修委員会、交流委員会、地域委員会、渉外委員会、未来共創プロジェクト、山車プロジェクト)が一致団結して、本会の長期的な意思(NEXT10宣言)に基づき青年部の未来に繋げていただきたいと思っています。青年部では個人では出来ないことも、様々な職種のメンバーの力を借りれば実現でき、やれないことはないと思っています。そのためには互いを知ることで、まずは参加してください。きっと青年部の素晴らしさを体感できます。私も青年部のみんなに支えられて今があり、周りに恵まれみんながいたからここまで来れました。これから、そのご恩をどう返していくのかが私の課題です」
『緩衝材的な存在の人』と形容する周りからの声もあり、かつて諸先輩から手を差し伸べていただいたように、誰かが困難な時に声を掛け、人と人を繋いでいく。フレンドリーな本来の資質と自然体で接する姿勢が相まって、それらは自身の財産になり大きな強みとなっている。人と人が繋がり絆を深めていくことが青年部の魅力と語るように活動を通して、また「一緒にやろう」と誘われたトライアスロン・登山・マラソン・ゴルフと趣味を通してメンバーと繋がり、成長してきた。
「家業の居酒屋らんは共に歩む家族と夢を追う場所です。カフェをやりたかった私に、パティシエを目指す娘から「なっちゃんがカフェ作ってあげるわ」と頼もしい言葉をもらい、縁あってぶどう農家を継ぐ長男と将来はコラボ出来たらと、楽しみに待っています。アットホームな当店は富山の旬な食材(ブリ、白エビ、ホタルイカなど)、らんちゃん焼き(店主自慢の鉄板料理)などや、こだわり抜いた日本酒の数々がお薦めです。料理の美味しさ、接客・サービスが良かったよという声をいただくのはやりがいに繋がってきます」
『子どもは生きがい』と娘さんとの時間を何よりも大切にする。(長男は独立)お店が早く終わった9時、10時頃から近場にドライブに行き、休日には娘さんの好きな京都へ車を走らせる。時には『娘さんの育ての親』の実母も同行して親子3代で旅に出る。2026年4月、青年部会長として、高校生になった娘さんの最大の理解者として、ご主人のベストパートナーとして、ネイリストとして、次なる“始まり”のスタートラインに立った。
●ちょっと一息
『やってみたい』と思うと勢いで始めてしまいます。調理師免許もその勢いで取りました(笑)。その後、細かい作業が好きなのでネイルをしてみたいと軽い気持ちで始めたら楽しくなって、もっと極めたいと思い、スクールに通ったりセミナーに行ってネイリストの資格を取りました。お店の定休日にはネイルサロンに勤めていたこともありました。娘が小学校に上った時に、子どもがいる間は家にいたいと『居酒屋らん』の2階でネイルサロンを始め、もっときちんとやりたいと2年前からは花園町に女性専用サロン『Rn.(アールエヌ)』を開業して、らんの定休日(水・木曜日・要予約)に営業しています。
お客様から「これでまた1ヶ月間頑張れるわ」「1ヶ月に一度ここに来るのを楽しみにしているの」という言葉をいただくことはとても嬉しいですね。私も頑張ろうという気持ちをいただいています。ちょっとしたオシャレでモチベーションが上がるなんて、ネイルの力は素晴らしいと感じています。ネイルを学びたい方もぜひお越しください。マンツーマンで対応いたします。
今も休み無く働きっぱなしですが、ネイルも好き、お店も好き、青年部のみんなも好き、家族
も大好き、好きなものに囲まれていて幸せです。人生楽しんでいます。
1979年半田市生まれ、在住。97年愛知県立半田農業高校卒業。飲食関係に勤め、2010年、『居酒屋らん』開業。同年当所青年部入会。以後、副委員長、委員長、監事、副会長を経て、令和8年度(2026年)会長。
2025年10月2日(木)
1895年『鍛冶定』として名古屋市で創業した同社は、橋梁・鉄骨には、社事業を柱として発展してきた。半田市との関わりは1963年、当社の業の主力工場として半田工場の操業を開始したことによる。2012年には、橋梁を主軸とする同社にとって、『第二の創業地』とも言える半田市へ本社を移転した。地域への想いは強く、『半田市福祉文化会館』のネーミングライツに協力し、『瀧上工業雁宿ホール』となった。地域への想いは強く、『半田市福祉文化会館』のネーミングライツに協力し、『瀧上工業雁宿ホール』となった。(常滑・りんくうゲートブリッジには、「つくった会社は‥瀧上工業㈱」とユニークなメッセージが添えられ、同社のネーミングライツ1号となっている)。また、今年9月、創業130周年記念イベントとして、市民も対象にした記念講演会を『瀧上工業雁宿ホール』で開催した。
「不透明な時代、今後の方向性を照らす灯台の明かりのような役目を果たせればと、薬師寺の大谷徹奘師をお迎えし、「ステージチェンジと生き方」をテーマにお話いただきました。社員、家族、多くの市民の方々に参加いただき感謝しています。私は現職に就いて15年、経営の難しさ、環境の厳しさを年を追うごとに実感しています。まるで下りのエレベータに乗っているような状況の中、必死に走り続けなければ現状維持はできません。常にもがきながら、就任時から温めていた構想を一つずつ形にしてきました」
創業者、瀧上定治郎氏を祖父君にもち、家庭で会社の話題が出る際、若さ故、自身がイメージしている会社とのギャップを感じることもあった。そのため、後継者となった折には自分なりの会社経営をしていこうと考えた。大学卒業後に会社経営を金融面から見ることも大切であると、㈱三菱銀行(㈱現三菱UFJ銀行)に入行し、5年後の1990年同社に入社。48歳で現職となり、ガバナンスの再構築に取り組んだ。新規事業として太陽光発電による売電事業を開始し、事業基盤の強化を図り、新たにマニラ駐在所を設置し、不動産事業を再スタート。また、関連会社を完全子会社化し(現在7社)、長年に亘り培われてきた、ゆるぎない技術と技能を持つ『総合エンジニアリング企業』としての地位を確立した。
「業界には自社をアピールしないことを人徳とするような雰囲気があったように感じていました。もっと外に向けてアウトプットする必要があると前々から考えており、その一つがネーミングライツへの参加でした。 BtoB(企業間取引)形態の当社では、それをしたから橋が一本オーダーできるということはありませんが(笑)、何をしている会社であるかは認知されたのではないかと思っています。自分が勤めている会社がどういうことをしているか分かってもらえてないのは、社員も寂しい思いをすることでしょう。外へのアウトプットによって人材確保にも良い影響が出ているようです。今では社員の6~7割が知多半島出身者です。『橋梁事員ともっと喜びを分かち合える会社にしたい』という夢があり、ステークホルダーである社員は大切な人財です」
就任当初から書き続けてきた『社長日誌』は200号を超えた。会社の現状、自身の考え方、時にはお孫さんのことなどプライベートにも触れ、月1回グループ会社も含めたWeb上の掲示板に配信し続けている。「文章を書くのは好きかもしれない」と語るように、入社式・創立記念日・年末・年始・賞与時など年間20回に余る挨拶文等を、自分の言葉で伝えるために、締切に追われながら『想い』を綴る。
「給与・賞与明細は紙で配布し、そこにも私のメッセージを添えています。社長就任時には『社長賞』を設けていた時期もありましたが、今年から表面に現れる輝かしい業績を上げた社員だけでなく、縁の下の力持ち的存在の社員にスポットを当てました。清掃を頑張ってくれている、さりげない心遣いでみんなを元気にしてくれるなど、社員からの推薦、私目線での推薦者を幹部で検討し、この春には20名に寸志を贈り、一人ひとりの推薦理由を引用し、感謝の想いを綴った私の言葉を添えました。「こんな所まで見てくれていた」「頑張ってきたことが評価された」と驚きや喜びの声が上がっていると聞き、このことで働き方や日常生活の次へのエネルギーとなったら尚更嬉しいことです」
橋梁は道路、海、川、谷などの障害物を超えて通路を提供し、人や物の移動を助け経済発展にも繋がり、まちとまち、人と人とを繋ぐ交流の架け橋となっている。そういうインフラ整備に関わる企業としての存在意識をもち『世の中に無くてはならない企業』としての自負心を持って欲しいと、社員に語りかける。現に同社は衣浦大橋、東海道新幹線六番町跨道橋、本州四国連絡橋の施工は、その時代においてのレガシーとして語り継がれ、人々の生活に利便性や心の豊かさを提供し、日本経済の発展に寄与してきた。
「中国の兵法書『孫子』の格言『巧遅は拙速に如かず』は長年私が心掛け、新入社員に向けて発している言葉です。日本人の特性かもしれませんが、うまくやろうとするが故に、迅速に物事を進めない傾向にあるように思います。私がせっかちで楽天的なせいかもしれませんが(笑)、『やってみなはれ』的な考え方をしていて、失敗したらやり直せばいいと思っているのですが、現状はなかなか難しいようです」
社歴を紐解くと、社長就任直後に半田に本社移転し、数年の内に温めていた構想を次々と形にし、その言葉を実践してきた。その柔らかな笑顔からは想像できない強靭な精神と実行力が宿っているようだ。創業130周年を迎え、社員と共に次代に向けたレガシー創出のための一歩を踏み出した。
●ちょっと一息●
仕事は一人だけでは出来ません。いかに協力・共鳴者を増やし、やる気を持って働ける組織作り、環境作りを行うことが私の使命と考えています。そのためには私の考え方や私の人となりを社員に知ってもらうことが大切です。『社長日誌』もその一つですが、かねてから組合幹部に「私との懇談会を企画してもらえないか」というお願いをしていたことが、昨年9月から開催の運びとなりました。私が勝手に『車座の会』と命名し、10名ほどの社員と2時間ほどお菓子やお茶を楽しみながら『互いの想いを語り合う会』として、全社員とその機会を持つ予定です。私自身は社員との距離感は近く、フルネームでは呼べないにしても、社員のことは分かっているつもりです。社員から見たらどうでしょうか?敷居が高いのでしょうか?色々な取り組みを通して、社内の風通しが良くなったという声も聞こえ、「そうであるなら、失敗してもいいからもっとチャレンジして欲しい」と期待しています。
趣味を聞かれる度に料理、日曜大工、家庭菜園と答えていますが、最近、草取りも仲間入りしました。朝の5時半くらいから自宅付近の草取りをし、熱が入ってしまい中央分離帯の草まで取ったり、会社でも思わず草むしりをして、社員から「やめて欲しい」と言われています(笑)。仕事柄でしょうか、綺麗になったまちを見るのは気持ちの良いものです。
1961年名古屋市生まれ、名古屋市在住。85年早稲田大学法学部卒業。同年㈱三菱銀行(現㈱三菱UFJ銀行)入行。90年同社入社。97年取締役営業本部営業部長。2006年取締役兼執行役員営業本部長兼名古屋支店長。07年取締役兼執行役員管理本部管掌兼企画管理室長。08年常務取締役企画管理室管掌兼生産本部管掌兼工事本部管掌。10年現職。当所議員。