半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
ひと

半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
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自身に厳しくNO.1を目指す

2024年10月2日(水)

アクサ生命保険株式会社 名古屋支社支社長 稲垣 佳樹氏

就活時、金融業界は人気企業だった。二人の兄が金融業界に身を置き、同社に在籍する次兄の友人から「日本団体生命保険(現アクサ生命保険)は、いい会社だよ」と助言を受け、入社し37年が経った。
 「入社以来、春日井営業所を皮切りに、営業社員の指導や育成に携わってきました。当社は商工会議所会員企業の福利厚生制度(生命共済・退職金共済制度、リスク対策や事業承継など)をサポートしています。私は商工会議所に育てていただいたと言っても過言ではなく、現在も県内の尾張地区13商工会議所とお付き合いをさせていただいています。今まで四国、沖縄以外の営業所に勤務し、仕事内容や出会う方も様々で刺激を受けながら、充実した日々を送ってきました。赴任地では休日に付近の観光へ出かけ、北海道ではスキーやスノボ、キャンプ、銚子海岸ではサーフィンを楽しむなど、旅行が好きで何にでも挑戦したい私はそれぞれの土地を満喫し、転勤は好きでした。ただ、何度も転校した子ども達は友人との別れを繰り返し可哀想でしたね」
 26歳で営業所長となり、54歳で支社長に就任。今年1月に現職に就いた。人々との出会いは楽しかったが、慣れない地域性に戸惑ったり、戦場と化したようなアクシデントに遭遇したこともあった。どんな時でも相手の自主性を尊重しながら、しっかり話を聴き、話し合いながらコミュニケーションを図ることを大切にしてきた。それによって社員の心を一つにして、同じ方向を向き目標を目指してきた。
 「時として自分と闘うこともありました。あれこれ失敗もありましたが、リスク管理をしながらプラス思考に捉える大切さを仕事を通じて学びました。どんな時にも判断するのは自分自身であり、諦めずそれを克服することによって、新しい世界が開けてくると信じています。私自身、こうと決めたら粘り強く挑戦し続けてきました。へビ年だからでしょうか(笑)。
色々なことにアバウトなのですが、拘ってきたことはただ一つ、『数字を達成する、成果を出すこと』だけです。体力や精神力、決断力を求められる時も多々あり、学生時代にテニスで体力、空手で精神力や集中力が養われたことが役立っていると体感しています」
 拘ってきた数字の達成はその粘り強さ、精神力が形となり、今年上半期(1月~6月)は全国41支社の中で5位の成績に輝いた。また、それぞれの営業所が商工会議所と連携して実施する商工会議所共済『ベストウィズクラブキャンペーン』で半田営業所は今春、2年ぶりに目標額を達成。全国515商工会議所の中で、上位10%に入る順位を獲得した。
 「社員が頑張ってくれたこと、当社の半田営業所と半田商工会議所との連携を密にしたことが最大の要因だと思っています。元々、日本団体生命は1934年に日本商工会議所が設立し、初代会長は商工会議所会頭でした。支店によっては会議所の専務や常務が支店長を兼ね、共済の推進は職員が担当というほど縁の深い会社であり、まさに商工会議所と共に歩き、成長してきました。この10月からは(11月末まで)秋のキャンペーンが始まります。会議所職員さんと、私どもアクサの担当社員が会員事業所にお伺いします。この機会にぜひご検討いただきますようお願いいたします」 
 入社以来、一貫して人と会うことが仕事とも言える営業の最前線で働いてきた。保険営業の中で一番困難であり、かつ大切なことは人間関係の構築であり、『営業は物を売るのではなく自分を売る』ことが本質であると、経験を重ねながら体得してきた。営業所長を統括する立場にある今はそれらの学びを活かし、次なる目標、名古屋支社と尾張地区13商工会議所のより密な連携を図り、全支社の中でナンバーワンになることを目指す。それは会員事業所福利厚生制度が充実した証でもある。また、『第一印象は視覚情報が55%』とも言われているが、健康経営を売る会社の健康経営推進シニアパートナーとして健康に拘り、自らの体型を維持し健康も保持してきた。
 「自分自身の健康寿命を伸ばしたいこともありますが、週の半分くらいはお付き合いでアルコールを飲む機会があり、体調管理を心掛けています。基礎代謝を上げるために、食べ物に気をつけ、平日はジムで10キロほど走り、土・日は家の周辺をランニングしています。旅も心の健康を保っているのに役立っているかもしれません。途上国への旅行には家族は付き合ってくれないのでバックパッカーとして旅します。その国を通常3万歩ほど歩き文化に触れ、経済の流れなどを見て、個人的に視察をしている気分です(笑)。今年のお盆休みは一人でハワイでサーフィンをしてきました。そういう趣味を楽しむのも有意義な旅です」
 好きな酒を飲むために走っていると苦笑するが、走ることは頭の中で物事が整理でき、気力も湧いてくる貴重な時間であり、健康維持のためにも酷暑の夏でも積雪する極寒の中でも走り続けてきた。スポーツから培った『初心貫徹』は、生きるための大きな財産となっているようだ。目標に掲げた『全社ナンバーワン』。粘り強い挑戦を続けることによって、それは近い将来、形となって現れるだろう。

●ちょっと一息●
 16年ほどの単身生活中は、たまの週末に家族のもとに帰るというパターンでした。その時は家族揃って歓待してくれて(笑)、その延長線で今も家族一緒に行動することも多く、旅行も一緒に楽しんでいます。体育会系の家族で各々が「やるからには、優勝を目指す」と向き合ってきたので、みんな元気で根性は座っています(笑)。今も家族で一緒にテニスをすることもあります。運動した後の家飲みはいつものことで、息子や娘の友人も集まってくることも多く、私もその中でしっかり自分のポジションを確保して楽しんでいます。

1965年岡崎市生まれ、名古屋市在住。1988年中京大学商学部卒業。同年、日本団体生命(株)入社、春日井営業所配属。小牧、尾鷲、鹿児島、栃木、新潟、長野、札幌、千葉、福島、
三重などの営業所長を勤め、旭川支社長を経て、2024年現職。健康経営推進シニアパートナー。当所議員。



主役はいつも人

2024年8月30日(金)

株式会社カナマル 代表取締役 石川 祐輔氏

祖父君、父君とも社長という経営者一族の長男として(3人兄弟)生まれ、『経営者としてあるべき姿』は既に刷り込まれていたが、音楽が好きでカラオケ機械メーカーに入社した。どうしたら高得点を出せるか?気持ちよく歌えるか?を昼夜考え、機材やマイクの調整や保守のために自ら歌うことが仕事だった。
 「趣味と仕事がマッチした順風満帆な8年間のサラリーマン生活でした。2010年に祖父が会長を務めていたカナマルの顧問から、後継者として戻ってきて欲しいと連絡がありました。こんなに楽しい毎日と別れるのは嫌だと思いましたが、『自分の運命』と受け入れました。全く違う業界で何も分からない上に、リーマンショックの影響で売り上げもダウンし、地を這うような状況下での入社でした。その後、病で社長が辞任、仕事も減り3日出社して4日休みという中で社員の士気も下がり、自分の無力さを痛感する日々でした。何とかしなければと「頑張って行こう!」と社員らに声がけをしても「こんな会社のためになんで頑張らんといかんのだ?お前が宇宙人に見える!」とさえ言われました。私自身も『引き継ぎもなく、赤字会社を丸投げされたか…』と憤慨しながらもやるべき事をやっていました」 
 2011年、中小企業家同友会に入会し、書籍『人を活かす経営』の一文『経営者はいかなる困難な状況にあっても、原因を他に求めたり諦めてはいけない』という言葉と出会った。その瞬間、全身に激震が走り、他責思考であった自分を深く恥じ、以後は全て自分事として捉えるようになった。社員と一緒に課題を解決し、経営理念や方針を掲げ、同友会の仲間にも包み隠さず悩みを打ち明け、アドバイスを受けた。現況を打破するためにやるしかないと自分を追い込み、一心不乱に働いた。 
 「2012年、社長就任時に会社を立て直していくことを宣言し、全社員と意を共にしました。以後、従来からの仕事、クレーンの重要部品の製造のみから業務拡大するため社員が一丸となり、今では建設機械、産業機械、各業種(輸送機械など)の溶接・機械加工・塗装・組立加工による製造業務を獲得しました。社員の結束力・技術力が花開いた結果だと感謝しています。一人では1馬力、複数では人数以上の馬力が出ることを実感しました。当社は図面1枚から材料手配-溶接-加工塗装-組立まで一連の工程をワンストップで対応できる強みがあります。その強みを実現するのに欠かせない広い工場と多様な設備を完備しています。また、得意とする厚い鉄同士の溶接は外面からはその品質は分かりません。しかしながら、当社の技術力を信頼していただけ
ているからこその仕事であり、付加価値の高い仕事に携わっている社員が誇りであり、カッコいいと思っています。夏は暑く冬は寒い工場内で、一生懸命モノづくりをしている社員たちには感謝しかありません。私自身は現場の仕事は分からないし、中途半端に関わっても邪魔になるだけなので、現場の作業は任せると決めています。自分の経験を会社の成長につなげて、社員みんなで成長していけるような、共に育つ関係でありたいと思っています。経営理念は『私たちは夢を形にするものづくりに挑戦します。私たちは笑顔で地域社会に愛される会社になります』です。「こんなものが欲しい」「あんなことに困った」など、多品種少量生産のお客様の要望(夢)も形にするために、知恵と技術と情熱でお応えするスペシャリスト集団です。主役はいつも人です」 
 社長に就任して12年。台風19号(2019年)の襲来により取引先の災害、コロナ禍など、時々壁にぶち当たって崩れそうになった時もあったと語るが、昨年工場を耐震補強して次代に向けて歩みを進めた。『AI時代が到来する』と言われる昨今、広大な工場や設備などを必要とするこの業界への新規参入はほぼなく、廃業する企業が増えているのが現状のようだ。技術力を誇る同社は、これからを担う人材育成に注力し、市場を拡大してきた。
 「当社は新規受注も増え、間違いなく伸びていきます。モノづくり歴107年、積み上げた経験と実績が証です。1917年、金丸勇氏が糊付機、整経機及び織布準備機械の製造販売会社として金丸鐵工所を設立した当社は、1980年に資金的に行き詰まり倒産しました。業界にとって重要な機械製造に関わっていた当社が無くなると繊維業界に悪い影響が出るということで、当時繊維に関わっていた祖父の石川三三に白羽の矢が立ちました。負債額14億円を5年で再建しましたが、国内での繊維業界の衰退に伴い、90年(株)カナマルとして『建設機械の部品製造業』にシフトして行き、現在に至っています。今も祖父を知っている人に出会うと「偉大な人だったね」と孫である私を可愛がってくださる方も多くいます。そんな祖父を持ち光栄だと思っています」 
 創業者は米騒動が背景にある時代、繊維に着目して人々が少しでも豊かになることを願った。その使命感と不屈の精神が脈々と同社に受け継がれている。 
 「その継承は重いのですが、世の中のお役に立つためにチャレンジし続けます。それが私の使命です」

●ちょっと一息●
 両親はビートルズ世代でいつも家には音楽が流れていました。父(家業の石三織布代表・当時)がギターを弾くのに影
響されエレキギターに夢中になり、だから大学は電気科に進みました(笑)。その頃からバンド活動をしてギター・ボーカルを
担当、大学を2年間休学して音楽活動に没頭していました。本当に自由に好きなことをやらせてもらって感謝しています。
 そのツケが回ってきたのか(笑)、戻ってきてからは偉大な祖父のプレッシャーに押し潰されそうになりながら、娘が生まれ
た時も「会社が倒産したら育てることができるか?」と不安でしかありませんでした。その娘も今は4歳になり、私の好きな
釣りの英才教育をしています。そんな家族との時間は、日々の忙しさを忘れさせてくれるかけがえのない時間です。

1976年半田市生まれ。2002年大同工業大学電気科卒業。業務用カラオケを扱う(株)エクシング勤務を
経て、10年(株)カナマル入社。12年現職。愛知中小企業家同友会南尾張支部副支部長。当所議員。



一人ひとりの想いに寄り添う

2024年7月31日(水)

東京海上日動火災保険株式会社 半田支社 支社長 谷口 理恵氏

時代性、企業方針、上司や仲間、様々な出会いにより、歩む方向が左右されることがある。2度の大きな岐路に立ち、上司の強い勧めの結果、現在がある。形の見えない商品を売るからこそ、人間味あふれる企業ではないか?そこの一員となり刺激を受けながら成長したいと同社を志望。地元大阪で自宅通勤を希望し、一般職枠で入社した。
 「実際に仕事をすると、事務職というイメージはなく保険代理店の事務支援をしながらの営業活動でしたが、社内業務に満たされていたので、外での仕事はそんなに積極的ではありませんでした。28歳で愛知県で働く夫と結婚する時に退職届を提出しました。その時に当社でIターン制度が導入され、上司から「制度を活用したら」と勧められ、考え抜いた結果、関西から東海エリアへ異動しました。当時は女性活躍推進の取り組みが始まり、女性の営業社員も増えてきている中で、女性が無理なく営業活動ができるかを模索するお役をいただきました」
 通常、保険を販売する代理店は、商品等については営業社員、事務的なことは事務方が、担ってきた。その両方の業務経験者から指導を受けることは社員、ひいては代理店にとっても効率的でありメリットも多く営業推進の仕事は打ってつけだった。自身では営業スキルの弱さを実感しながらも、事務を経験してきた強みをどう活かせるかと思案し結果を出してきた。
 第一子を授かった時に、再び岐路が訪れた。社内で産休・育休後に職場復帰するケースはあったが、勤務する名古屋自動車営業第二部ではまだその例はなくイメージも湧かず、「仕事を続けることはできない」と退職という結論に達した。その時、上司から「できないと決めて辞めるのはおかしい。できなかった時に判断すればいい」と諭された。
 「周囲の方に恵まれてきました。次女の育休を終えた後も、時短勤務やサポートをしていただき、本格的に仕事に向き合うことができるようになったのは、10年ほど前からです。入社した時から与えられたことに責任を果たそう、社内の仲間、代理店さん、お客様のためになりたい、自分が担当した意味を見出したいと思い、それらが実践できる方法を考え続けてきました。ひたすら目の前のことをやっていたら、時が経っていたという感じです。色々な偶然の積み重ねに感謝しています」
 3年前、半田支社に担当課長として赴任となり、昨年4月に現職に就いた。同社は一つ上のポジションの視点で仕事をすることを課しており、半田支社に赴任以来、「支社長ならどうするか?」と自問自答しながら仕事に向き合ってきた。支社長の椅子は着任時から既定路線ではと言われることもあったが、実際にその役職に就いた時から、リーダーとしての視点で物事を見ていく自身の変化に驚いたと言う。組織として最大限の結果を生み出すための対策を講じ、地域貢献を最大目標とした。それには一人ひとりが最高のパフォーマンスをし、目指す目標に向かっていくことが大切であり、社員を知り、コミュニケーションを図るために月1回は1対1での面談を実施している。同時にそれぞれが自分の歩幅でいかに成長できるか。それをサポートしていくのが使
命であり、『寄り添う』ことがごく自然に備わってきたと振り返る。
 「一般的に描くリーダー像は、営業の第一線で戦い、リーダーシップを兼ね備えている人というイメージではないでしょうか?私は事務職の期間が長かったので、そういうリーダー像とは異なっていますが、一人ひとりの想いを大切にしたいと思い『寄り添う』ことが私にできることと考えるようになりました。当支社は女性が7割を占める職場で、そんな女性たちの悩みや言い分を、同性の私なら理解できる部分が多くあります。男性リーダーではスパッと言えることも、その気持ちが分かり過ぎるために戸惑ってしまうこともあります。そこが私の弱さだと思っていますが、役割として言わなければいけないことは言うように努力しています。『女性は感情の生き物』と言われることがありますが、感情を抑えて、言い方には気をつけていますが「今の言い方で良かったかしら」と常に悩んでいます。涙もろく、嬉しい時、楽しい時には自然に感情が前に出てしまいます。最近は、組織を育てることは子育てに似通っているかもと感じています。おかしな表現かもしれませんが、メンバー全員を愛おしいと感じるようになってきました」
 まだまだ男性社会の業界であり、男性部下との同行時には、対面者が最初に名刺を差し出すのは男性部下、ということもよくあるようだ。「やっぱり!」「女性だから信用されていないのか」と思い悩むこともあったが、いつしか「女性支社長として覚えてもらいやすいのが利点」と前向きに捉えられるようになった。昨今でも女性だから頼りないと印象を持たれることもあるようだが、『頼りない』からスタートし、その力量を発揮すれば『なかなかやる!』と高評価に繋がり、それも女性ならではの利点と微笑む。
 『事務職に精通』という強みを携えながら、時代性、企業方針、仲間たちとの出会いで道を拓いてきた。明日からも様々な経験を積み重ねながら、いくつもの強みを築き、新しい形のリーダーとして歩み続けるだろう。

●ちょっと一息●
 長女の育休中に聴講した勝間和代氏の講演会で「仕事、育児、家事の全てを70%で頑張ったら合わせて210%。満
点の100%から考えれば十分な数字、自分を誉めてあげましょう」というお話を伺い、フッと楽になれました。それからは仕
事100%にして目は子どもを見るとかバランスを取りながら生活をし、全てに完璧さを求めることは止めました。共働きです
ので子どもが小さい頃は淋しい思いをさせたことがあったと思いますが、今では娘たちから「仕事辞めないでね」と言われ
ています。ずっと私が家にいると困るようです(笑)。
 趣味はテニス、アウトドア(キャンプ)、お料理も好きです。子どもたちがお弁当持ちになって、家族4人分のお弁当を作
るようになりました。手際のよい私は30分もあればパパッと作れます。少し自慢です。私の好きな時間は家族で過ごすこ
と。今年のお盆休みも家族旅行を計画しています。私専用のビールサーバーからビールを飲む時間も好きです。嗜むほど
ですが(笑)。

1975年、神奈川県横浜市で生まれ、大阪府茨木市で育つ。99年同志社女子大学生活科学部卒業。同年、東京海上火災保険(株)大阪自動車営業第二部入社。2005年名古屋自動車営業第二部に異動。21年半田支社赴任。23年現職。半田ロータリークラブ所属。東海市在住。当所議員、金融部会副部会長。



踏み出す勇気、豊かさの探究

2024年7月5日(金)

半田市中心市街地活性化市長特任顧問 伊藤 大海 氏

それは『エン転職』から始まった。2021年8月まちづくり業界の仲間から「半田市でこういう募集があるよ。応募してみたら?」と勧められた。半田市役所の副市長級ポジション、副業・テレワーク可能で、中心市街地を活性化させるための政策を立案、実行する仕事であった。まちづくりの第一人者の大学教授によると「行政側の人間として採用することで、市民がまちづくりに関わるためのハードルを下げた」と評価され、その取り組みは画期的だった。恐らく全国初めての試みあり、応募者は233人を数えた。 
 「就職超氷河期世代の僕は最終選考で緊張しすぎて暴言を吐いて、落ちる特技がありました(笑)。今回もどうせ受からないだろうから楽しくやろうと開き直ったら、幸いにも採用いただきました。僕は2015年に大分県竹田市が中心市街地活性化協議会を立ち上げた時に、民間側のタウンマネージャーとして関わりました。行政と地域の間に立ち、活動を支援する中間支援にこだわってきましたが、正論は言えてもアドバイザーである以上は権限もなく、ものを動かすのも難しい立場でした。地域にしっかりと入り込める現場で、まちづくりに関わりたいという想いを強く持っていました」 
 一貫して取り組んできたまちづくりは、小学4年生で母親から勧められた読売新聞社の『ヨミウリ・ジュニアプレス』の活動に端を発した。色々な人と出会い様々な活動に接し、アメリカに派遣された時にケンタッキー州で沈む夕日を見て「ここにいる瞬間にも、色々な生活がある」と目から鱗が落ちた。色々な人がいて様々な活動をしていることに価値があると社会づくりに心を寄せた。また、小学生の頃は戦争と平和について関心が強く、色々調べた沖縄への家族旅行では戦争の歴史に直に触れ、カルチャーショックを受け沖縄で仕事をしたいと、沖縄を研究できる大学に入学した。みんなで幸せに暮らしていく社会を作っていく仕事に就く決心をした。 
 「落ちる特技を発揮し(笑)目指した会社に就職できず、3年間はシステムエンジニアとして働き、その後1年間中小企業大学校で学びました。その大学校は当時、個人での受験はハードルが高く、校長先生に直談判に行きました。それが運命の出会いで、今も校長先生は僕の師匠です。中小企業診断士としての独立は2003年27歳の時です。その時、まちづくりを仕事にしようと思いましたが、「それは仕事にならないから考え直せ」と若造の僕は全く信用されませんでした。そこで、前職のIT企業での経験を活かし、HP作成やIT活用を支援するITコンサルタントという肩書きで先輩方の中に入っていきました。当時、彼らには苦手な新しい領域だったのです。徐々に自分のやりたい方向に持っていこうと試行錯誤して今につなげてきました」 
 独立して10年以内には中心市街地活性化法など国の施策がより本格化されると予測していたが、3年後の2006年に法改正が行われ、一気にまちづくりに関わる人が増えていった。だが若さ故に相手にされず「ダサいスーツを着て、オッサンぽくしていた」と笑う。30歳過ぎて全国各地に仕事に行くようになった時、ベテランコンサルタントから「大海(おおみ)君の話はいつ聞いても楽しいなあ」と言われ、ありのまま、感じたままで仕事をしていくことに自分の価値はあると気づいた。以来普段ではネクタイを絞めず、自分を理解してくれる人、感性を認めてくれる人の中で仕事をしようと決め、気が楽になったと言う。 
 「初めて半田に訪れたのは採用試験を受ける前、2022年の9月でした。駅前は特に特徴もなく駐車場ばかりで、正直に言えば区画整理がうまくいかなかった典型例のようでした。まちづくりが進まない理由の一つに老朽化した建物の林立が挙げられます。その点から見れば駐車場や空き地が多いのは、建物を壊すという手間が省け、いち早く手がけられる利点があります。また、各地でまちづくりが失敗してきたのは『活性化のエンジンがない』という故です。その対策として半田商工会議所、半田市観光協会、半田市が連携し、この5月にエンジンとも言える中心市街地活性化協議会を設立しました。中埜副会頭(中活協会長)に座長になっていただき幾度も会議を重ね、まちの方々にも助けられながら、通常2年ほどの期間を要する所、1年でここまで辿り着きました。ご理解・ご協力に深謝いたします。皆様の地域に対する情熱と危機感を感じています。僕の役割は、地域での幸せを作っていくための仕組みと仕掛けを作ることであり、素晴らしいものを拾い活かし、仲間を増やしていく『まちの再編集』だと思っています」 
 2022年12月の着任以来、名鉄知多半田駅前にベンチ設置、キッチンカー出店、ワークショップなど、『最大限の妄想(最大限の夢を語ることで、本来考えるより少し大きな物事が叶う)を描いて、事例に囚われず自分等で事例を作っていけば良い』と様々な仕掛けをしてきた。久世市長も言われるように、常に100点を目指すと動けなくなる、故に60点以上を目標に走りながら考え続けている。
 「何かしたいと種を持った人が集まったワークショップでは、その種から発生したアイデアが対話の中で化学反応を起こして「一緒にやろうね」と動き始めています。今僕はそういう人たちを集めることに注力しています。『まちづくりは人づくり』であり、人は大切なものをつなぎ新たなものを創造します。その中で行政はその想いを、どう可視化していくか、支援や環境づくりをしていけるのかが必要です。大学時代から『踏み出す勇気、豊かさの探究』を心に記してきました。豊かさはその地域にとっての豊かさを求めていかないと間違った方向に走ってしまうでしょう。物事の見方、背中を押す、手を引っ張る、足は引っ張らない。そういう応援の意味合いからも大切にしている言葉です」

●ちょっと一息●
 半田商業高校で「高校生目線で、まちとどう関わりたいか」をテーマに授業をし、その一環として5月にまち歩きをし、6月に模造紙にその提案を記載。それをクラシティに掲示しようと考えています。そういう風に皆さんが『実行したいこと』があれば、僕たちは応援できます。この秋にネットワークの形成、起業・創業の促進等を図ることを推進するため『半田市創造・連携・実践センター』を設置します。多くの皆さんのご利用をお待ちしています。   
 僕は今、東京都日野市に住みながら半田で月に10日ほど在住という生活をしています。家族は妻と中学2年生の息子で、僕が在宅している方が「手間がかかる」と思われて(笑)半田への出張、大いに喜ばれているようです。ここでの生活は快適ですが、目下の悩みは飲みに誘える人が少ないということです。工業用・医療用アルコール以外はなんでもいける口なんですが(笑)

1976年、佐賀県生まれ東京育ち、東京都日野市在住。98年明治学院大学国際学部国際学科(島嶼(とうしょ)社会研究)卒業。プログラマー、システムエンジニアを経て2001年中小企業大学校東京校中小企業診断士養成課程入校。翌年中小企業診断士 伊藤大海事務所代表(現・まちづくりLand for Next Generation)。国の支援機関等を通し、全国で中心市街地活性化の支援に関わる。15年~18年、大分県竹田市タウンマネージャー。22年現職。 



迷った時こそ、実行!

2024年6月3日(月)

株式会社大進 顧問 中村 宗雄 氏

 28歳で今は亡き無二の親友に請われて入社し、土木の仕事は同じ現場がなく、同じものを創っても条件はそれぞれ異なっており、工夫次第で勝者にも敗者にもなれる。その自由度の高さに魅力を感じたと振り返る。
 「それまでとは畑違いの職種でしたが、『土木は経験工学』と言われているように、求められるものが明解なので、性に合っていると感じました。アウトドア派の僕は現場での夏の暑さ、冬の寒さも気にならなかったですね。当時は従業員が4・5人、創業者が病に倒れ廃業の話も出ましたが、代表のご指名を受け企業存続のため、法人成りし人事を見直すなど組織変革を図りました。厳しい判断をせざるを得ないこともあり、今思い出しても辛かったこともありました」 
 会社のために身を粉にして働いたのは、30歳で生死を彷徨ったことが一つの理由として挙げられる。原因も不確かで再起不能と宣告されたが、ある治療法と出会い奇跡的に回復した。その時、寝たきりになっても生きていたい。普段の生活がいかに貴重であったのか、普通に仕事をして普通の生活がしたいと渇望した。やっておけば良かったと思うことが多くあり、一歩踏み出すことの大切さが身に染みた。迷うのはそのことをやってみたいからと、以後『迷った時こそ、実行する!』と心に決めて、普通に仕事をするために、企業の健全化を図ろうと下請けから脱却し、伸ばしていく経営にシフトしていった。 
 「下請けが8割方だったので、新たな仕事を作っていきました。知り合いの方達に助けられながら、元請けとしての仕事はでこぼこしながら次第に増えていきました。15年ほど前、各市に直営店のリフォームショップを1店舗ずつ作りたいという募集に手を挙げ、お陰様で当社が『可能性が高い』とご縁をいただきました。期待される会社になることの必要性を実感しました」 
 「『LIXILリフォームショップ大進』として、新たな分野を広げ、東海南高校校舎改修工事に対し、卓越した技術と献身的な努力により優れた成績で工事を完成させた評価で、愛知県建設部より『平成28年度優良工事施工業者』として表彰された。品質・安全・利益をいかに高い次元でバランスをとるかが大切であり、競争しない仕事をしていくことが他社と闘う基礎条件と強調する。競争しないとは、選ばれる会社であり、「いい仕事をするから頼みたい」と思われるような企業を目指し尽力する日々が続く。だが想いが強すぎて動き出してしまうので、俯瞰して見ることを自身に課しているそうだ。 
 「若い頃は生き急いでいるとか、暴走列車と言われたこともあります(笑)。親しい方たちからは、「お前の唯一良い所は決断できる所」と言ってくれる人もいますが、何でも簡単に決めてしまうのでしょうね(笑)。ただ常に現状を変えようと、M&Aで建設会社2社、空調、メンテナンス等を業務内容とする1社を取得しました。僕は暇そうに見られてしまうことが多いのですが、結構やることはあります(笑)。変えたいという想いから、一時政治の世界にも、気づいたら走り出していました。政治は
まちの発展のためには本当に大事なものだと思いますが、社員への責任を考えたら、会社はもっと大事だったんですね」 
 現在は同社の顧問、前述3社の代表としての任に就く。経営の効率化や企業運営の無駄を省くために、ホールディングス化する流れがある中で、現体制の道を維持した。社員に頑張ってもらい、その中から社長に就く人の姿を見たい、人を育てていく喜びを体感したいと語る。その背景には氏も多くの人に育てられ、ある意味、次代の人材を育てることは『恩返し』なのかもしれない。半田青年会議所、名古屋の青経塾(青年経営者研究塾)、現在所属する半田ライオンズクラブなどで学びの場を積極的に求めてきた。 
 「人の話を聞くのが大好きです。食べること、飲むことが好きな僕は、食べ物に例えるなら『体のためには何でも食べよう』と言うのと同じで、貪欲にどんな分野の話を聞くようにしています。むしろ興味の持てないような分野の話を聞く時の方が得るものが多いように感じています。この間も市内のファッション講座に行ったのですが、学ぶことが多かったですね。学びも成長につながってくると思っていて、人間の成長は出会った人数×距離だと考えています。だから僕は距離は関係なく動くよう意識しています。そして忙しいから止めようと思いがちですが、却って忙しい方が時間を有益に使えるような気がしています」 
 今年、還暦を迎え『やることリスト』を新たに見直した。誘われて始めたマラソンは名古屋・大阪・京都・松阪などで走り、最終目標はニューヨークシティマラソン出場であり、ウルトラマラソンへのチャレンジも視野に入れている。そして今年4月から、学びたいと法政大学経済学部の通信制教育課程に入学した。大学生としての顔も持ち充足感を得ながら、さらに多忙を極めることになりそうだ。
 「一度は終わった人生と思い、いただいた残りの人生を全力で過ごしているだけです。マラソンは自分の体力と時間配分を計算しながら走らないと完走はできません。仕事や人生もそれと同じで、闇雲に走り続けても素晴らしいゴールには辿り着けませ
ん。『失敗した時こそ学びがある』と思い、失敗を恐れず学び続ける人生でありたいと思っています。『迷った時こそ、実行!』です」


●ちょっと一息●
 長年、半田国際交流協会に関わり、昨年末に松石会頭から会長を引き継ぎました。かつては姉妹都市(アメリカ・ミッドランド市、オーストラリア・ポートマッコーリ市、中国・徐州市)との交流が主事業でしたが、半田市に外国籍の方が5%近く在住する今は『多文化共生』をテーマに活動しています。外国の方も働きやすいまちづくりをすることは企業の発展につながっていきます。そのお手伝いができればと思っています。
 地元、上半田地区の住吉ちんとろ祭委員会の事務局長を務めています。今年はキッチンカー、テント、テキ屋さんとそれぞれの良さを活かし、祭りの雰囲気を盛り上げていただきました。地域の方々から協賛をいただき開催している祭りなので、大人の都合だけでなく、子どもさんも楽しめる祭りになるようにしていきたいと考えています。

1964年半田市生まれ。83年半田工業高校(現・半田工科高校)機械科卒業。サラリーマン生活を経て、92年同社入社。98年代表取締役社長。2007年現職。半田国際交流協会会長。住吉ちんとろ祭委員会事務局長。その他要職多数。半田市在住。当所議員。