半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
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半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

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変えていくことを恐れず

2021年10月18日(月)

株式会社CAC 代表取締役社長  金澤 茂明氏

1979年5月5日、半田のまちは祭一色に染まった。半田青年会議所(JC)創立15周年の記念行事『はんだ山車まつり』を迎えた日だった。その興奮は映像として、まつり会場に足を運べない人々(病院や老人施設等)にも届けられた。JCメンバーで、アンテナの設置工事、電波障害対策工事等の会社経営の先代、金澤憲二氏(現会長)も会場から施設にケーブルを敷設し、その日に備えた。
 「あの日から41年、当時奔走した人たちの熱い想いを残そうと、昨年にドラマ『1979はじまりの物語~はんだ山車まつり誕生秘話~』を制作し、劇場版として今年11月に公開します。今や半田を挙げて行われる勇壮な山車まつりが起因となり、3年後にCATV愛知として設立した当社は、山車まつりと共に歩んできました。まつりが形を変えてきたように、当社もより地域の方々のためのケーブルテレビ局として、時代の要請に応じた取り組みをしてきました」
 長男として生を受け、テレビ受信機器等を扱うマスプロ電工を経て、家業に入社。ケーブルテレビ局(ひまわりネットワーク・豊田市)に出向し、後継者としてのノウハウを学んだ。営業と番組制作に関わり、営業担当者として新規加入者の勧誘と料金滞納者の回収業務に携わり、想像すらしなかった人間模様にも直面した。
 「お客さまから金銭をいただくことの難しさを存分に味わいました。企業としてはお支払いいただき成り立ちますが、人は色々な事情の中で生きています。そこをどう解決するか。そのつど提案させていただきましたが、あの時の対処で正しかったのか、今も思い出すことがあります。様々な場面に心が塞ぐようなこともありましたが、人として貴重な経験をさせていただきました」
 28歳で自社に戻り、様々な取り組みを始めた。入社当時は、社内では誰もが全般の業務に当たり、分野によってより深い知識を持つ社員は限られていた。打開策として会社の組織化を図り全社員のスキルを上げ、より深い専門性を追求し、社名も変更した。CATVはケーブルテレビの略語であり、今後は有線だけでなく、無線のインターネットの時代である。そして愛知というエリアを限定するのではなく、ニーズに応じた展開をするためにCommunity And Creativeの頭文字を取りCACとし、『地域と創造』を経営理念とした。
 「行動指針は『CHANGE AFTER CHANCE』です。新たな挑戦には何かしらの変化が求められます。変わることには時としてタブーも必要ですが、それをタイミングよく取り除くことで、『CHANGE』は『CHANCE』へと変わります。(『CHANGE』のGの一部【T】を取り除けば『C』となり『CHANCE』になります。『変化からの機会』行動指針の頭文字もCACになり、そんな言葉遊びも楽しんでいます)社員には物事を変えていくことに、恐れを持たずに取り組んで欲しいと思っています」
 その言葉が示すように、電気・ガス、インターネット、モバイルサービス等、生活が合理的になり豊かになるサービスを提供している。令和元年には知多信用金庫、半田中央印刷と共同でクラウドファンディングを立ち上げるなど企業支援や、地域活性化につながる事業の支援にも尽力し、様々な時代の要請に応え、今年度の当所の創立記念行事『優良会員事業所表彰』を受賞。さらに、昨年はある意味、対局の立場にあるとも考えられるYouTubeチャンネルを開設した。
 「YouTubeは主に若者世代が情報を得ているスマホで見ることが可能です。そこでは番組宣伝を流し、気に入ればケーブルテレビを見ていただく流れを想定しています。また、現在は半田、阿久比、武豊(一部)のエリア限定のテレビ局ですが、スマホは日本中で見ることが出来ます。半田で生まれた当社が半田をご紹介でき、今まで育てていただいた恩返しも出来るツールだと思っています」
 2代目社長として8年、試みは正解かと自問自答する日々。先代から『経営者は孤独だ』と言われた言葉をしみじみと感じていると言う。
 「責任は全て私、だから面白味はあり、追い込まれていく自分を楽しむ余裕も生まれました。ただ誰もがこのような経験をできる訳ではありません。重責であり、苦労はつきものですが、この機会を与えてくれた先代に感謝しています。山車まつりが誕生し半田が変わっていったように、当社も半田がより住みやすいまちになっていくようなお手伝いをしていきたいと思っています」

 
●ちょっと一息●

地域の方々が登場するドラマを創りたいと構想を考えていた時、半田JCが上梓した『その時、半田の歴史が動いた:三十一台の「はんだ山車まつり」はこうして始まった』と出会いました。当時の最年長メンバーは40歳。41年経った今では生の声が聞ける歳月はそれほど残されていない。『時代を変えていけ』という想いを映像で残したいとドラマ化を決めました。主軸となるキャストは公開オーデションを経た知多半島の人、半田市内でのオールロケをし当局で配信してきました。
好評を得てこの度、劇場版として再編集と追加撮影をし、11月26日ユナイテッドシネマ阿久比で公開することになりました。順次全国で公開し、この映画を通して、はんだ山車まつりを全国に紹介したいと考えています。
 当社は来年創立40周年を迎えます。25年を迎えた年に一方が角丸の名刺を作りました。四半世紀ごとに角を丸くし、2082年の100周年を迎える年には角の取れる名刺になります(笑)。人間同様、会社も社歴を重ねて丸くなっていくのも良いのかとも考えていますが、変えていくことを恐れず『CHANGE AFTER CHANCE』の想いは不滅でありたいですね。
変えていくことを恐れず

1975年半田市生まれ。ビジネススクールを経て、95年マスプロ電工(株)入社。2000年CATV愛知(現CAC)に入社し、ひまわりネットワークに出向。03年自社に戻り、営業担当等。13年現職。日本ケーブルテレビ連盟所属。ケーブルテレビ情報センター理事。半田市在住。当所議員。株式会社CAC 代表取締役社長



5Sが行き届き良品が生まれる

2021年9月22日(水)

エスケー化研株式会社 名古屋工場長村尾光博氏

高校を卒業した18歳で社会に出て何が出来るのかと悩んだ。そんな時に工業高等専門学校(高専)への編入の話が舞い込み、『挑戦してみよう』と、在籍校から初の高専生となり、後輩にその道を拓いた。以後もその時々で決断を求められる場面に遭遇したり、突然の辞令交付を受けては、『やるしかない、挑戦してみよう』と、持ち前の気骨を見せてきた。同社で一番転勤(12回の海外赴任の話)を断ったことは、この限りではない。 
 「卒業後に外資系の医薬品メーカー(東京)に就職しましたが、会社の移転により勤務地がスムーズに決まらないことに痺れを切らし、帰郷しました。タケノコ工場に3ヶ月ほど勤め、縁あって当社の福岡工場(現九州工場)に入社しました。初日に1時間程の研修を受けて、欠員のあった生産現場で働きました。生産に追われていた時代とはいえ、以後も『ポストが空いてしまったから、行ってね』『村尾、兼任せよ』というようなことばかりでした。一貫して生産畑で設備屋として働きましたが、専門用語も分からず入門書や取扱説明書を読みあさり、全て独学でした。今も当時のトリセツを手元に置き、初心を忘れないようにしています」 
 何かアクシデントが起きれば声がかかり『専任だろう』と頼られる。前日に担当者になった』という言葉を呑み込みながら、メーカーに教えを乞い、根性で乗り切ったと笑う。小学生時代に正しいと信じれば大学生と言い合いをした熱血男児であり、剣道で培った忍耐力は誰にも負けなかった。そして仕事はより早く、精度はより高くを目指し、常に向上心を持ち続けた。仕事がチョコチョコ止まる『チョコ停』を嫌った。落ち込むこともあったが、常に努力を怠らなかった。その結果、気落ちしない精神力に磨きをかけ、いつの間にか愚痴の聞き役という役目を担うようになった。
 「名古屋工場の稼働(1987年)に伴い、転勤となった上司の空きポストに私が入り、九州工場長となったのが15年前。そして名古屋工場での会議(各工場持ち回りで工場長会議を開催)の席上で突然、名古屋への辞令を受け現職に就いたのが昨年5月でした。入社してからずっと九州工場勤務。同僚や旧友、家族や体の弱い母を残しての転勤を拒みましたが、今度こそは断れないと観念し単身で赴任しました。九州工場で育ってきた私は九州のスタイルしか知りません。だからこそ、ここに来て見えてきたものはいっぱいあります」 
 開設以来の設備は旧態依然としていて、そこから手を入れた。設備の改善、部品の整理、照明機器の見直し等、課題は山積しているが、『5Sが行き届かない工場からは良品は生まれない』と会社周辺の草刈りもし、気持ちよく働ける職場づくりを始めた。
 「5Sの中で一番大切なのは躾だと思っています。私は同業者、従業員とも互いに良くなることが大切と、胸を割ってきました。そうでないと本当の声は届いてこないと思っています。煩しかったら言ってねと話していますが(笑)。ただタメ口で話すのは他所に出た時に苦労するので、本人のためにはならないでしょうね。 
 今も九州工場や付き合いのあった広島工場から、ことが起きれば電話がかかってきます。人には得手不得手があります。私でお役に立つことができればと、ついつい管轄外でも現場が止まるという話を聞けば、最優先はお客様だと対処法を検討してしまいます。そんなことが続くと自分の仕事に影響が出ることもあり、一番報告書の提出が遅い工場長のレッテルを貼られています(笑)」
 陣取りゲームが大好きで、九州時代は担当者と協力し九州の市場シェア率80%までに成長させた。設備、人材においても最強の九州工場に負けない工場にすることが一番の目標であり、3年以内に気持ちよく働ける職場づくりを整えることを視野に入れる。趣味が仕事のような日々、目標に向かって知恵を絞り汗を流す。
 「村尾が来たって何も変わらない、と思われるようでは来た価値がありません。『こう変わった!』という足跡を残すことが必須です。無限に近いほどやることはあります。『やるしかない、挑戦する!』打倒、九州工場です」

●ちょっと一息●
弱い者いじめをしている現場を見ると血が騒ぎ(笑)、小学生だった頃も中学生や大学生に向かっていく怖い者知らずでした。その喧嘩相手とは、なぜか今も親交があります。あまりのやんちゃぶりに、武道をしたら落ち着くだろうと両親から剣道を進められ、少しはその成果があったようです(笑)。高専時代はラグビー、バンド(ギター)と、青春を謳歌しました。 
 元気が良かったためか、声をかけられることが多く、ボランティア活動にも関わる機会がありました。重度障がい者の人たちと一緒に学園祭に行ったり、今も地元福岡の相撲協力会で子どもに手ほどきをしたり、九州場所で部屋を構える千賀ノ浦部屋の力士に子どもが教えてもらう時に手伝ったりしています。帰郷すれば九州工場の同僚や旧友、消防団の仲間と会い、家は寝に帰るだけです。
現在は、根性論は薄れていく時代になりましたが、何事にも一生懸命でいたいですね。

1964年福岡県糟谷郡篠栗町生まれ。84年有明工業高等専門学校卒業。同年医薬品メーカーに勤務し、86年同社福岡工場(現九州工場)入社。生産、品質管理、生産管理、工場長を経て、2020年現職。半田市で単身赴任中。エスケー化研株式会社 名古屋工場長



全ての人が幸せに

2021年8月10日(火)

名鉄知多タクシー株式会社 代表取締役社長 佐野 達郎氏

 地元企業で働こうと大学卒業後は名古屋鉄道に入社。同社は入社後1年間は駅務・車掌などの鉄道事業での研修があり、最初の研修配属先は知多半田駅だった。小学1年生の時に東浦町に転居し、知多半島は馴染み深い土地ではあるが、半田との関わりはここから始まった。1年後にはグループ会社への研修出向で、北海道・網走市でホテルと観光船の業務に携わった。ちょうどその頃(1991年)網走流氷観光砕氷船の運行が開始され、立ち上げ当初の業務にも携わった。
 「世はバブル期でホテルには日本はもちろん、海外からもお客さまが殺到し、多忙な毎日でした。この業界での働き手は少なく、当時は自分で言うのも何ですが、結構必死に働きました(笑)。再度、網走勤務になった時、ホテルか観光船のどちらの勤務を希望するかを問われ、ホテル勤務を希望しました。大変だった仕事の方が深く脳裏に刻まれ、仲間と一緒に乗り切った達成感が得られる方が、私の性に合っていたようです。今も、あの頃の仲間たちの顔を思い出すこともあります」 
 人事採用、広報宣伝、文化レジャー、不動産部門と様々な職種に携わった。採用時代には求人のために長崎まで飛び、文化レジャー勤務時には、新しい遊園施設を誘致するために、岡山まで行った。
様々な土地で、色々な人々と出会い、企業人としての姿勢を学び、それは大きな財産となった。 
 「2007年、名鉄交通に配属以来、タクシーと関わることになりました。名古屋、半田、豊橋、岐阜などで働き、再度半田に現職として昨年の6月に着任しました。タクシー事業は究極の移動手段だと考えています。鉄道やバスは、ダイヤに合わせて駅やバス停まで自力で行かなければ利用出来ません。タクシーは24時間、自分の行動に合わせて自宅まで呼ぶことが出来ます。この事業は、常日頃からお客さまにご利用いただくことで成り立ちます。特にコロナ禍で人の動きが制限されている今、乗車いただいていたことがどれほど有難かったかということが身に染みています。『ご乗車いただけない』ことを経験した私たちは、アフターコロナ時代に向けて、次なる策を考えなくてはなりません。新しい時代に新たな挑戦を、そう考えるとワクワクしてきます」 
 特に現場の実績が業績に直結する業界での事業継続には、雇用確保の継続も重要な仕事であり、氏の使命でもある。方針を出し、それを達成する方法を考える。同時に事務所スタッフと一緒になって現場で働く人たちの環境を整え支え、縁の下の力持ちとなって仕事をサポートする。コロナ禍の中でも乗務員数がほぼ変わらず推移しているのは、そういう日々の努力が形になっているのだろう。 
 「乗務員も事務スタッフも、全ての人たちが幸せになることで、会社としても上手く回っていくと感じています。私たちは知多半島を商圏としています。そこに住み働く人々全てに喜んでいただけるような輸送体系を整えること、それも大きな使命と思っています。入社して30年ほどになりますが、社歴から見ると在籍しているのはわずかな期間です。その間に何が出来、お役に立てるにはどうしたら良いのか、常に模索しています。そんな中で、これから先100年、150年と続いていけるような状況の会社にして、次代にバトンタッチをしていくことが出来ればと思っています」 
 かつて先輩から『次の時代の人が、自然に業務を継続していけるような仕組みを作ること、それが仕事をしたことになる』と言われたという。その言葉が根底にあり、次代のステージ作りに尽力する。見えにくいがために地味に思われがちではあるが、礎とも言える仕組み作りをする。それが氏にとって大きな課題であり、日々思案する。 
 「振り返ってみますと、今、コロナという禍に見舞われ、社会人となってから一番苦しい時代を過ごしているかもしれません。少しずつ灯が見え始めることを信じて、社員一丸となって今を必死で生きています。だからこそ、この半田での勤務時代のことは、私の仕事人生の中でも印象深く残ることでしょう。やはり、半田とはご縁があるようです。
 当社の旅行業はリコリスツアーと名付けています。リコリス(彼岸花)の花言葉は『また会う日を楽しみに』です。またと言わず、いつもいつも皆さまにお会いしたいですね(笑)」

●ちょっと一息●
 一時、体を壊し医師からはタバコも禁止されたので、休日は家内と一緒に自宅付近を歩くようにしています。お洒落なカフェでモーニングをし、リフレッシュしています。
 子どもも離れ家内との二人暮らしですが、10年ほど前に家内が猫を自転車でひき、以来その猫と同居することになりました。そのうちに近所の方から「猫がいるんだけれど・・」とか言われて、あれよあれよと言う間に、気がつけば、人間ふたりと猫10匹の大家族になってしまいました。家内とも猫の話題で盛り上がり、「最近生まれたばかりのこの子が天寿を全うする20年後くらいまでは元気でいなければね」と話しています。休日は散歩以外は猫の世話で明け暮れています。本来、猫をあまり好きではなかったのですが、今は大好きになりました。

1965年京都府舞鶴市生まれ。小学1年生で知多郡東浦町に転居。1989年中央大学法学部卒業。同年名古屋鉄道株式会社入社。北海道網走市にグループ会社への研修出向、グループ人事採用、本社(広報宣伝・文化レジャー部門)、名鉄不動産、2007年名鉄交通(株)、名鉄タクシーホールディングス(株)などを経て、2020年現職。当所常議員。名古屋市在住。



三方よし

2021年7月28日(水)

東京海上日動火災保険株式会社半田支社 支社長 渡邉敬倫氏

その日は、突然やってきた。小学生から野球一筋だったが、怪我をし断念せざるを得なかった。行き先を見失い、大学で学び将来を模索しようと受験勉強に没頭する日々が始まった。それまで勉強とは距離を置いていたが、参考書を熟読し友人たちの力を借り受験に臨んだ。
 「大学3年生を終了後、1年間休学してニュージーランドに語学留学しました。夏休みなどの長期の休みに、衛星放送や電話会社選択サービス『マイライン』の申し込み等、歩合制のアルバイトをして留学費用を貯めました。度重なる門前払いに心が折れそうになりながら、技よりも量と1軒1軒しらみ潰しにあたりましたが、販売の基本は精度を高めていくことだと実感しました。その想いは今の仕事にも活きています。チームを組んでの業務で、お陰で成約率は常にトップでした。お客さまに合わせて商品を組み合わせご提供できる金融業界に魅力を感じ、卒業後は証券会社への入社を予定していました」
 内定式を終えた日、会社訪問をした日動火災(現東京海上日動)から入社の打診があり、魅力的な先輩、仕事の内容に惹かれ急遽、同社最後の新入社員として京都支店勤務となった。(翌年東京海上火災と合併)。アルバイトでは自分の力や想いが成果となったが、代理店さんを通じて商品を販売する間接的な営業に、ジレンマを感じたこともあったと言う。後、経理、海外部門、横浜中央支店、姫路支店を経て、2020年4月現職に就いた。
 「異動の度に全く違う職種に戸惑いましたが、常に書物に助けられました。環境に馴染むタイプと思っていますが、人間関係に悩んだり、思い描く成果を達成するノウハウ取得、また人材育成のためにその手の本に頼り、今も書物は私の相棒です。当社は1879年、渋沢栄一が創立した日本最古の保険会社です。以来、リーディングカンパニーとして時代に即した商品を提案し、挑戦し続けています。最近は大規模災害の発生、コロナ禍等々と、短いスパンで多様な変化が起きていますが、変化をチャンスと捉え新たな取り組みを始めています。当社もデジタルを最大限活用しデジタルと人の力のベストミックスを模索していますが、保険はピープルズビジネス。人と人との信頼関係が構築されて成り立ちます。つながりの重要性を再認識しています」
 また、企業、地域社会が成り立ってこそ、保険商品は機能する。その考えから、17項目からなるSDGs(持続可能な開発目標)に注力し、支援している。3番『すべての人に健康と福祉を』を受けて、健康経営に優れた企業として、経済産業省と東京証券取引所が共同で選定する『健康経営銘柄2021』に保険業で唯一6年連続で選定された。取引先企業の『健康経営優良法人認定』の取得支援を精力的に行っており、氏も『健康マスター検定普及認定講師』の資格を保持している。
 「半田支社の経営理念は『知多半島の豊かさで、快適な社会生活と経済の発展に貢献する』です。地域創生はSDGsで注目する分野であり、当社も半田市、知多信金、半田信金、商工会議所との5者間による地域力推進(地方創生)プロジェクト協定の提携を結びました。私が副部会長を務める金融部会の事業計画にも、SDGsに関連した事業を掲げています」
 同時に半田市、商工会議所と連携し、カードゲーム『SDGs de 地方創生』を通して勉強会の開催、SDGsに取り組んでいる企業の支援、PRに尽力している。このカードゲームの主催、開催には公認ファシリテーターの資格が必須であり、同社東海北陸ブロックで62名がその資格を有し、氏も率先して資格保持者となった。
 「その土地で足跡を残す。当社で言われている言葉です。今までその土地土地で足跡を残してきたつもりです。半田ではSDGsの普及に取り組み、足跡を残したいと考えています。転勤族の私はどこの勤務地でもSDGsの目標に通じる当社、お客さま、その土地の活性化をテーマに仕事をしてきました。私の中に売り手よし、買い手よし、世間よしの近江商人の『三方よし』の精神が生きています。それは私が育った滋賀の風土が醸成してくれたのかもしれません」
 転勤という、その日が当然やってくるまで、三方よしの精神に則り、半田のために尽力していくことだろう。

*カードゲーム『SDGs de 地方創生』は、企業や住民らが主体となって行政と協力し活動することで、まちをダイナ
 ミックに変えていく面白さを体感することができます。

●ちょっと一息●
『知る者より好む者、好む者より楽しむ者のパフォーマンスが勝る』と言われているように、楽しむために色々なことに挑戦してきた方だと思います。
それぞれの勤務地で最大限楽しみ、負けず嫌いな性格から在学中は色々なスポーツ検定に挑み金バッジを取得、そして誰よりも先に資格保持に挑戦したり・・・。最近ゴルフを始め、スクールに通う予定にしています。振り返れば野球をやめることになった時は落ち込みましたが、今こうしていられるのは怪我をしたから、怪我をしたことが幸運だったかもしれないと感じています。常にポジティブに考える。これも私の資質でしょうか。
 休日には公園で息子とキャッチボールを楽しむことも大きな喜びです。子どもがいるから頑張れる。妻がいるから気分がラクになり人生が豊かで充実している。そんな家族と一緒に楽しい日々を送りたいと思っています。

1978年京都府生まれ。小学2年生で滋賀県に転居。2003年関西大学商学部卒業。同年日動火災(株)(現東京海上日動火災保険(株))入社。京都支店、経理、海外部門(シンガポール・マレーシア担当)、横浜中央支店、姫路支店を経て、
2020年4月現職。当所議員。当所金融部会副部会長。半田市在住。



モノ作りに憧れて

2021年6月9日(水)

愛知道路コンセッション株式会社 代表取締役社長 柘植 浩史氏

始まりは大工さんへの憧憬だった。手先が器用で竹とんぼ、凧などモノを作ることが大好きだった。中学入学前、自宅建築時に大工仕事を見て、『楽しそう!』と中学卒業後に大工の道を志した。視野を拡げてから将来を決めたら、と親族からアドバイスを受け、高校に進学したが、建築・土木の世界への想いは深く、大学院修了後により大きなものを造りたいと、前田建設工業に入社した。  
 「モノを造りたい一心で現場を希望しましたが、本社(東京)設計部門に配属され、海ほたるのシールド発進立坑の構造設計が最初の仕事でした。新入社員ではできることも限られ、モノが大きすぎて歯車のような感覚で(笑)やらされ感が強く、喜びは東京で働けることでした(笑)。4年目に上司に直訴し、現場に出してもらいました。首都湾岸線に続く浮島の現場で、設計者の目で見た予見通りのトラブルが発生し(設計通り進捗しないのは地質の原因が多い)、それを対処し会社に貢献できた時に、土木屋としてある程度一本立ちをしたと感じ、モノを造る喜びも味わいました。現場で働くだけでなく、設計技術者としても貢献できると実感しました。そんな時に、設計技術者か現場、どちらを専門とするかの選択を迫られました」 
 『現場経験をした設計技術者は大きな強みを持つ』という上司の言葉に納得し、設計技術者としての道を決意した。後、長男ゆえに郷里、中津川市に近い中部支社(名古屋市)への転勤を願い出て勤務。上司の引き合いで、社長直轄の会社方針等を決定する部署、本社総合企画部への異動命令が下ったのは38歳の時だった。その異動は現職へとつながることになり、大きな岐路となった。 
 「経験・知識不足も感じ、新しい業務に飛び込み期待に応えられるのかと不安にかられましたが、背伸びしても力以上のことはできない、与えられた環境の中で着実に一歩一歩進んでいこうと覚悟しました。以後、その姿勢は仕事への取り組み方の基本になっています」  
 2019年現職に就任。同社は全国初の有料道路運営(県内8路線)を行うことを目的に、前田建設工業が2016年設立。愛知県内で72.5キロ、うち知多半島内では52.8キロの道路の維持・管理をしている。 
 「当社の運営開始以来、道路の舗装状況が良くなった、料金所での対応も良くなったという声をいただいています。当社の親会社が建設会社であるからこそ、道路施設のメンテナンスにこれまで培ってきた建設業のノウハウが活かせていると感じています。ご利用者様に安心して走っていただける安全な道路を提供するために、当社や協力企業は日々精進しています。南海トラフ地震に備え、パーキングエリア(PA)を使っての防災訓練も定期的に実施しています。災害時にはPAに留まっていただくことが大前提です。皆さま方のご協力をお願いいたします」  
 上司や仲間に恵まれたからこそ、ここまでの歩みがあったと道程を振り返る。また、人と人との関係は鏡であり、自分の思っていること、考えていることは相手も思い考えている。互いを尊重しながらより良いものを創造していく。それもまた、仕事をしていく姿勢にもなっている。 
 「運が良かったことで今の私があると感じています。しかし、運は自ら呼び込む側面もあり、感謝の気持ちで周囲に接することが大切と信じています。感謝の気持ちを持ち続ける。私の生き方です」  
 モノを造りたいと飛び込んだ世界だった。現在は長として直接モノ造りの分野からは距離を置いているが、流れに逆らわず、一歩一歩着実に歩む。その精神は不変である。

●ちょっと一息●
 「バスケットボール、野球、スキー、テニスを楽しんでいましたが、10年ほど前から一人でできることを、と週2回ほどジョギングをしています。(ハーフマラソンに2回出場)。走った後の達成感が堪らず、体調管理も兼ねて走り続けたいと思っています。コロナ禍で色々なイベントが中止になり、週末
には家族の住む中津川市に帰る時間が取れるようになり、家庭菜園に勤しんでいます。モノを作るのが好きだからと始めたのですが、椅子や本棚を作るのとは勝手が違い、生き物は難しいですね(笑)。昨年は上手くいっても今年は不作だったり、だから作っていて面白いですね。そろそろ夏野菜の植え付けが始まります。 
 晴耕雨読、悠々自適の生活は夢ですが、体が動かなくなったことを考えて、読書以外で動かず長く楽しめる趣味を探していますが、なかなか見つかりません。亡き父が好きでやっていた囲碁に挑戦するのもいいかもしれませんね」

 1964年岐阜県中津川市生まれ。89年岐阜大学大学院工学研究科土木学
専攻修了。同年前田建設工業(株)入社。本社設計部門、中部支社、本社総合企画部長等を経て2019年現職(前田建設工業から出向)。当所議員。半田
市在住。