半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
ひと

半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

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未来に羽ばたくために

2020年7月15日(水)

日本車輌製造株式会社 輸機・インフラ本部 衣浦製作所長兼技師長  西尾 俊彦 氏

大きなものを作りたい、地図に残る仕事に関わりたいと入社し、鉄構事業部に配属された。そこで水門等の機械設備の設計技術者としてスタートし、22年間設計や工事管理に携わってきた。この仕事と出会って幸せだった、と語る人の多くから『運が良かった』という言葉が飛び出すことがある。氏もまた、時代の大きな節目に、やりがいのある仕事に携われ『運が良かった』と語る。
 「設計技術者として、印象深い仕事を一つあげるとすると、地下鉄の海底トンネルの水門建設で1年ほど香港に駐在したことです。初めての海外での仕事でした」
 九龍と香港島を結ぶ海底トンネルは、沈埋トンネル方式が採用され、両岸部には防災用のゲートを設けているが、そのゲートの設計を同社が担当した。氏は、当時建設中の空港と香港島を結ぶ海底トンネルの水門の設計・施工で関わり手腕を発揮した。1997年、香港返還の年に工事は完成し、7月1日の20世記最後の歴史的イベント「香港返還」を間近で体感し、現地で雨空の花火を見上げた時、工事を完成させた喜びもひとしおだったと振り返る。
 「いろんな仕事を経験しました。運よくその時代にその仕事と出会い、多くの人との出会いがあり様々な学びがありました。技術者として、これまで有意義で充実した時代を過ごすことができました。そうした経歴を経て、所長としてこの衣浦製作所に戻ってきた昨年は、事業部の大きな節目となるプロジェクトの真最中でした」
 同製作所は、1975年の開所から45年以上に亘り橋梁を始めとする各種鋼構造物の製造を担ってきた。現在、工場を大規模にリニューアルし、同社の他製作所で生産してきたタンクローリーや大型産
業車両を移転しラインナップに加え、この4月から新体制で始動したばかり。従業員も大幅に増え、協力会社を含め約500名という大所帯になった。
 「安全で働きやすい環境づくりは所長として最も大切な仕事です。今、モノづくりの会社では、技術の伝承は大きな課題になっています。
若い人がここで働きたいと思ってもらえるような製作所にしたいと、厚生施設にも注力しました。社員食堂はカラフルできれいになり、メニューも充実しました。どれも美味しいと評判で、若い社員はお昼ご飯を楽しみに仕事をしているという声も聞いています。工場リニューアルの機会に製作所パンフレットも一新し、『未来に羽ばたく』という最初のページの言葉に、私自身の思いも込めました。所長としては未だ1年生。日々、いろんな課題にどう対処すべきかと自問自答しています。時には厳しさも必要になりますが、自分なりの方法で従業員の皆さんと接していこうと思っています。毎日が手探りの連続です」
 製作所の安全を預かる総責任者の立場として大きな重責を担い、工場内を日々安全パトロールし、気さくに従業員に声をかけコミュニュケーションを大切にする。1年目の今は時には迷い悩みながら所長としての職務に向き合う。
 だが、技術者としては、自らの経験を通して、社会に役立つ仕事、地図に残る仕事をしてきたことに誇りと絶対の自信を持つ。水門は災害から人を守る、橋梁は地域をつなぎ人と人をつなぐ、タンクローリーは人々の暮らしに欠かせない燃料を全国隅々まで届ける。同社の企業理念『社会基盤の充実と発展に幅広く貢献』は、全社員のモチベ
ーションになっている。
 「私は一仕事やり遂げた後の仲間との打ち上げが好きです(笑)。
一人の力には限界があります。仲間と共に困難を乗り越えた後、一緒に語り合い、一緒に飲み、喜びを分かち合う。これは最高の時間です。その瞬間を心から楽しむためには、自分が全力で仕事に立ち向かい納得出来た時だけ。やるべきことをやったと自分に言える時だけと思っています。私自身、新しいことに挑戦することは好きで、いつもワクワクした気持ちで、精一杯仕事に取り組んできたつもりです。その結果、心に残る仕事と多くの仲間と出会えました。今は新型コロナ禍で大変な時期ですが、仲間と共に乗り越えていきたいと思います」

ちょっと一息
身体を動かすことが好きで、今はゴルフにはまっています。製作所敷地内の片隅に芝生を巡らして整備し、ゴルフ好きの仲間と共に毎日練習に励んでいます。
休日は、妻と近くの野山をよく散策します。四季折々で自然と触れ合うことは本当にいいですね。最近、山の中で突然大きなカモシカと出くわし、びっくりしました。

西尾 俊彦 氏
1963年岐阜県恵那市生まれ。86年名古屋工業大学機械工学科卒業。同
年日本車輌製造(株)入社。鉄構事業部に配属され、本社(熱田)や衣浦製
作所の勤務を経験し、22年間同事業部に所属。その後、エンジニアリング事
業部(11年間)を経て、2019年現職。多治見市在住。当所常議員。





幹事会活動を通し充足感を得る

2020年5月29日(金)

潮干会代表幹事・株式会社テクア半田事業所 所長  渡辺 勝広氏

「前世は欧米人だったかもしれません」と笑いながら語るように、ある意味、昭和30年代生まれの日本人の視点とは少し異なるのかもしれない。氏の職歴もその一つのように思う。
 「大学卒業後は営業職として東京の商社に就職しましたが、縁あって30歳の時仕入先であった名古屋のプラントメーカーに転職しました。その後、顧客であった産業廃棄物処理業界に転職し、同業3社を経て2013年2月現職に就きました。僕は職人に憧れ、一つの仕事を突き詰める生き方は素晴らしいと思っています。でもサラリーマンからのスタートだったので、自分の可能性を見出すことが出来るかもしれないと、次なるステップを求め続けてきました。業種が変わるたびに専門書を読みあさり苦労もしましたが、どこに行っても、その道に精通する人になりたいと思ってきました。社会に出てからの学びは生きた学問です。それが今の僕の財産になっていると感じています」
 同社は、1955年常滑市での創業以来一貫して環境衛生事業に取り組んで来た。2013年循環型社会形成に貢献できる新規事業の基点として半田事業所を開所し、県内浄化センターから排出される下水汚泥を発酵処理し、有機肥料を製造、農地に還元するリサイクル事業を行っている。そこの初代所長に着任1年後から、潮干会(潮干町内企業24社で結成された自治会・事務局は半田商工会議所)の運営に代表幹事として関わっている。
 「産廃処理工場は自分の側には来てもらいたくない迷惑施設でしょう(笑)。しかし、ここで生きているのだから社会貢献をしよう、お役に立てればと思って引き受けることにしました。僕の性分から、引き受けたからにはしっかりやろうと、様々な提案をしてきました。清掃活動、献血、親睦ゴルフは定例行事でしたが、もっと多くの人が潮干会に関わって楽しめるよう、ボウリング大会をスタートしました。また、場内道路での迷惑駐車・雑草繁茂、夜には暗くなってしまう歩道等、地域が抱える問題を改善するため所轄官庁様との懇談会を実施しています。僕は行政に対しても言いたいことは言っています。でもクレーマーではなく、団体として努力出来ることをしながら、市としても会の困っていることに協力して欲しいと要望し、互いに仲良くしながら環境改善を図りたいと思っています。そして、先に進むためにはその時々で、結論を出すべきと考えています。提案させてもらいながら話し合いをし、その要件が不可能であれば、次の一手を考えることができ、前に進むことが出来ます」
 時には自助努力をしながら、暗い歩道対策でソーラーセンサーライトを会で購入し幹事会メンバーで設置した。交通安全講習実施、起震体験車ナマズ号による地震体験会段取り(残念ながらコロナウイルス感染拡大防止のため中止)等、働きやすい環境づくりのために尽力してきた。有言実行を座右の銘とし、(不言実行は嫌い。失敗しても分からないでしょう(笑))ついつい、『こうしたい、ああしたい』と提案し率先して動く。自ら忙しくしているかもしれない、自己満足かもしれないと苦笑するが、これも性分のようだ。行動型の英米人、慎重型の日本人と言われることがあるように、とかく日本人は自ら積極的に発言し行動することは少ないようだ。それ故に、友人からは「欧米か?」と軽口をたたかれることもあるそうだ。
 「好きでやっているんだから、やってもらったらいいんじゃないと言われながら(笑)、潮干会幹事会と関わり6年目(内4年が代表幹事)になり、あっという間の6年でした。いわゆるボランティア活動である幹事会活動を通して、金品では得られない充足感を得られたように感じています。思えば予想外に転職を重ねた40年で62歳を過ぎた今、失業期間を1回も経験することなく生業を得られたことには感謝しかありません。定年退職まであと3年になりましたが、ますます健康に留意し、サラリーマン人生の最終コーナーを元気に走り抜けたいと思います」

ちょっと一息
高校時代はサッカー部でしたが能力の限界はいかんともしがたく、大学時代はワンダーフォーゲル部に所属していました。体育会だったのでかなりしごかれ、道なき山での合宿はつらい記憶しかありませんが、手つかずの自然に対する畏敬と憧れは今でも脳裏に残っています。そのせいか、20年ほど前から源流に近い渓流域でのテンカラ釣りにはまっています。ヨーロッパ発祥のフライフィッシングの日本版と言えばわかりやすいでしょうか。テンカラは竿・ライン・毛ばりの3点のみの道具立てでアマゴ・イワナと対峙する日本特有のシンプルな釣りです。ウキ・リール・おもりは使いません。
 諸説ありますが江戸時代にはその原型である職漁師の釣りとして存在していたようです。(私はキャッチ&リリースですが)シンプルが故により自然と溶け込んだ感が強く飽きることがありません。今年は外出自粛のため一度も釣行できていませんが、(昨年購入した軽キャンピングカーでの遠征もおあずけです)春から秋の漁期(それ以外は禁漁)に年10回以上は山岳渓流に足を運んでいます。もちろん大きな熊鈴をつけておっかなびっくりですが(笑)

渡辺 勝広 氏
1958年神奈川県川崎市生まれ。82年明治大学商学部卒業。商社、プラントメーカーを経て、20年前くらいから産業廃棄物処理業界に関わり、2013年(株)テクア入社、半田事業所所長に着任。名古屋市在住。




高度な技術力、的確なニーズ

2020年5月1日(金)

株式会社富士総合設備事務所 代表取締役  西川 祥司氏

ユニフォームの作業服を着て、現場から現場に飛び回わる日々を送って30年近い。トヨタの関連会社、化学工場を経て、同社に入社したのは25歳の時。先代社長の娘さんと結婚し、後継者の道を歩むことになった。
 「継ぐことを軽い気持ちで引き受けたのですが、畑違いの設備工事の仕事は戸惑うことばかりでした。配管工事をしていても何の配管かさえ分からず、完成してから初めてこの仕事をしていたんだと思うほどで(笑)、見よう見まねで一から覚えていきました。体力には自信があったのですが、きつかったですね。色々な苦労はありましたが、『何とかなる』と考えるようにし、楽観的な性格で乗り切ってきたことも多々ありました」
 同社は1972年、先代の榊原康夫氏がプレハブ小屋を構えスタッフ4人でスタートした。当時は指定工事制度も定着し、半田市下水道指定工事店(現在は半田市・東海・知多・西尾・豊田・名古屋市等の上下水道指定工事店)として順調に滑り出した。しかし、第一次・二次オイルショックに見舞われ苦境に立たされたこともあった。そんな時も高度な技術力を追求し、現場が何を要求しているかを的確に把握し、精度の高い仕事をすることをキーポイントとし、難局を乗り越えてきた。その経営方針が同社の底力となり、1997年に名古屋支店を開設。2007年には本社を現在地に移転し、市場を拓いてきた。
 「2代目として2012年に現職に就き、現場の仕事、図面の作成に忙殺されています。会長に退き、別会社を設立して仕事に臨む先代に今も多く学んでいます。仕事が好きで何事にも真摯に取り組み、常に意欲的ですね。80歳を超えてもイキイキと働く姿勢は、経営者としても人としても見習いたい点です。
 この業界もここ数年で、安全に対する意識が高まってきました。書類一つとっても、入社した頃に比べるとその数も増えました。夏は炎天下のもと、冬は厳しい北風の中での仕事ですが、安全で働きやすい環境づくりを心がけています。課題の一つに職人の減少があります。3年から5年の経験で一人前になり、あとは応用次第ですので、ベテランになっても現役で働けます。ただ体力が必要ですのでスタートは若い時、30代前半までが望ましいですね。未経験者でも可能、やる気のある人を募集中です」
 扱う部材も日々進化を遂げ、アンテナの張り方で仕事の効率化に格段の差が出てくる。使用器材は設計図の品番に則るが、部材は企業努力が反映されることも多いようだ。今まで困難だった作業も、使用する部材いかんで容易に作業できるようになる。日頃の材料屋との付き合いや、メーカーの新商品の発表会の参加など、いかに情報を得るかは、経営者としての重要な仕事ともなっている。
 マンション、店舗、工場などのトイレや台所、厨房などの水廻り全般の給排水衛生空調設備工事や、工場内各種配管工事などに携わるモノづくりの世界での達成感は、完成した時と言う。深く埋設される配管や住宅でのその仕事は、完成後は目に触れることはないが、高度な技術力、的確なニーズの把握は、確かにそこに生きている。
 「公共の建物に入ると、ついついトイレの便器に目が行ってしまいます。どんな仕事をしているか確かめてしまいます。職業病でしょうね(笑)。当社の業務内容は土木、建築工事に関連する付帯設備工事、計画、設計、施工、維持管理の請負など多岐に亘り、尾張、三河地方、及び名古屋地区を商圏としています。それは設立時に社名を考える時、富士山の優美な姿に憧れ、広範囲に知名度を高めたいと云う思いを込め、また、メンテナンスの必要性も感じ、あえて『事務所』を付けたと聞いています。その思いに恥じないよう日々精進していきたいと思っています」


ちょっと一息
 実は今年開催されるはずだった『東京オリンピック2020』の観戦チケットの抽選に当選しました。陸上の予選でしたが、延期になってしまって残念です。今年の夏の楽しみがお預けになってしまいました。
 趣味とは言えないかもしれませんが、昨年二人目の子どもも大学で外に出て、ヨメさんと二人になりネコを飼い始めました。私が帰宅しても喜んで膝に乗ってくるわけでもなく、「帰ってきたな」という感じで淡々としています。愛猫“二コ”は室内で暴れまわるので至る所にバリケードを作り、快適に過ごしてもらいたいと猫グッズ作りに追われています。楽しく作業しています。もう少し懐いてくれると嬉しいのですが(笑)。


西川 祥司氏
1967年大阪府生まれ。小学校2年生で半田市に転居。85年半田東高校卒業。92年同社入社。2012年現職。当所議員。



熱波

2020年3月31日(火)

令和2年度半田商工会議所青年部会長 株式会社池田工業代表取締役 池田 龍一氏

行きつけの店で、マスターがカウンター越しに声をかけた。「商売をしているなら、半田商工会議所青年部の仲間にならない?」いち早く隣の彼女が「いいじゃあない。入ったら!」と応じた。青年部への入会が決まった瞬間だった。その後、彼女と結婚し、入会直後に結婚お祝い金を頂戴したと笑う。
 「本格的に活動したのは小学校のPTA活動にも携わり、一区切りした入会7年後くらいからです。「飲みに行こう!」と引っ張り上げてくれる先輩に恵まれ(笑)、飲みに行く、青年部に馴染む、事業に参加するという図式で活動にハマって行きました(笑)。活動を始めた時、『東海ブロック半田大会』があり、交通部会長を拝命しました。役員の中で一番若かったので、色々な意見をいただきフォローしてもらいました。先輩方はみんな熱くて、物事に対して真剣に取り組み、そのパワーに感動し貴重な経験をさせていただきました」
 氏は裏表のない人、有言実行の人とメンバーから評される。そんな姿勢が心を打ってか、令和2年度の会長に要請された。今まで先輩に学んだことを後輩に返そう、現役メンバーの「やってください」という声が、受託する大きな要因になったようだ。
 「僕自身、3年前に父から家業を受け継ぎ、プレイジングマネージ
ャーとしての立場です。正直、仕事との両立は厳しいと感じています。しかし、時間を作るのも勉強の一つと先輩方から学びました。出来ないと思ったら出来ない、見よう見真似でやってみようの精神で向き合っていこうと思っています。こういう立場に押し上げてもらったので・・・。僕からすると、押し上げてくれた皆んなの方が大変では?僕をフォローするのが(笑)。
 でもこれからの青年部は、僕みたいなものでも役員が出来るということが重要になってくるのではと思います。それぞれ個性があり資質も様々ですが、入会したからには誰もが役をやって欲しい。やれば、きっと感じることはあるはず、成長につながるはず。役は人を作ると信じています」
 『失敗してもいいからチャレンジを』よく言われた言葉だと振り返る。熱量を持って挑戦すれば、その熱に仲間もほだされ成功へとつながる。熱量を持って事業に参加すれば、その熱が波及して会全体が盛り上がる。そういう場面を幾度も重ねてきて、『熱量』の重要性を体感した。会員同士、外に向けて熱い波を起こして行きたい。そんな想いを込めて、スローガンは『熱波』とし、『沖に(遥か遠くのものを目指す)行くなら、熱い想いで取りに行って欲しいと願う。
 「せっかく会員であるなら目一杯YEGを使おう!!組織を使って商売、人脈を広げて行って欲しいと思っています。同時に子どもたちに夢や希望を与え、半田に誇りを持ってもらえるような新しい波を起こして行きましょう。それがどんなカタチとなり、どんな事業になるかは不明ですが、やっている僕らが楽しまなければ意味もないと感じでいます。また、全国的な流れに倣い、政策提言委員会を設置しました。学びながら1年間かけて、地域活性化の一助となるような政策提言を作り上げていって欲しいと思っています。どんな時にも、僕はトコトン付き合います。かつて先輩たちから、そうしてもらったように」
 会長がやりたいことが正解ではない。皆んなで一緒に作り上げていくことが大事であり、そこに至る過程を大切にして欲しいと強調する。大人になると、同じ目標に向かって物事に関わる機会が少なくなっていく。しかし、青年部活動ではそれを経験することで出来、仲間としての絆が強くなっていく。それを多くの仲間に実感してもらいたいと願う。
 「毎年、会長は新しい青年部を作ろうという熱い想いで活動をスタートしていると思います。発足56年目という歳月の中で、その時々の時代で先輩方が熱を持って作り上げてきたモノ・コトを胸に刻み、守るべきものを守りながら、時代を先駆けるべき熱量を持って活動を行って行きましょう。さらに魅了あるモノ・コトを次代に託しつなげていけるような、熱い新たな波を皆んなで起こして行きましょう。この1年間、それが楽しみで今ワクワクしています。青年部にお誘いいただいた、天草元会長に本当に感謝しています」

池田 龍一氏
昭和52年2月生まれ。平成13年(有)池田工業入社。平成29年、代表取締役就任、屋号変更。青年部入会:平成15年度。副会長、監事を経て、本年度会長。半田市在住。


ちょっと一息
趣味は青年部の懇親会です(笑)。メンバーと飲むことは楽しくて、30代までは酒豪で通っていました。自慢は、どんなに飲んでも記憶をなくしたことがないことです。今は少し弱くなって、宴席でも12時になったら寝ます(笑)。
 歌うのは拷問です(笑)。たまに酔うと歌うのですが、そんな時はもう皆んな酔っぱらっていて、誰も聞いていないですね(笑)。



半田の子どものために

2020年2月28日(金)

ヤマネ株式会社 代表取締役 間瀬 貴裕氏

半田の子どものために・・・・・思い、描き、実践してきた。
 中学1年生の時に『後継者に』と母親と叔母に泣きつかれ、不幸のドン底に落とされた、と今は笑顔で振り返る。兄は違う道に進み、自分しかいないと理解していても反発し、勉強から逃げ、何の努力もしない高校生活を送ったと言う。そんな中でも子どもが好きと保育士を志した時もあり、今も書棚には夢追うために開いた書籍が眠り、あの頃の想いが詰まっている。
 「専門学校卒業後に設計事務所に勤務し、同時に半田商工会議所青年部に入会しました。以来25年間、どっぷり青年部活動にハマり、生きる力をごく自然に学ばせていただきました。青年部入会時は20歳。一番の若手として先輩メンバーと関わり、会長の時は青年部発足50周年であり、メンバーに助けられながら事業を終えることができました。僕は本来トップで動く人間ではなく、支えるタイプだと思っていますが、貴重な経験が出来た巡り合わせに感謝しています」
 その時のテーマは「子どものために」と、子どもたちが半田を好きになれる事業にこだわった。記念事業はプロのスポーツ選手との触れ合いを企画し、大人になってからも半田であんなことがあった、半田はいい町だったと思い出してもらえるようにと願った。
 青年部卒業後を目前に控えた今から3年前に、その時を待っていたかのように当所の建設部会運営委員に要請され、子どもに向けての事業に取り組んだ。昨年の夏休みは『重機で縁日体験』と称して、建設現場で働く重機、高所作業車の乗車体験などを企画・実施した。
 「タイル施工販売、ブロック・レンガ工事等を生業としています。モノづくりは面白くやりがいのある仕事だと思っています。当社で働く職人も毎日イキイキと仕事をしていますが、この業界も高齢化が進んでいます。最近は特に建設現場は危ない場所という認識で、子どもたちが直接目にする機会が減っていることも、その一因となっているのではと考えています。僕は子どもの頃に父に連れられ、当たり前のように仕事を手伝い、その光景が子ども心に焼き付いています。それがなかったら断固としてこの世界に入らなかったでしょう(笑)。建設現場を身近に感じ、楽しい世界だと思ってくれる子どもさんが一人でもいれば嬉しいと思って、先輩部会員の皆さんにご指導を受けている毎日です」
 与えられたことは真摯に受け止め全力を尽くす。これも青年部時代に叩き込まれた。建設部会運営委員として心の余裕が少し出来た昨年秋、またまたそのタイミングを図るように議員就任に白羽の矢が立った。
 「息子は現在、中学1年生。まさに僕が後継者にと強制された年です。父は後継について一言も発しなかったように、僕も子どもの意志に任せようと考えています。この先、会社が存続するかは不透明であり、僕の規模の会社でお受けしていいのか、随分悩みました。今こうして先輩方の半田の想いを聞ける場所をいただけたことは幸せだと感謝しています」
 少年時代、父親はJC活動にも情熱を燃やし、ほとんど家にいなかった。苦労する母親の姿を見て『父は大嫌い』だったと言う。しかし、父親は亀崎の少年野球チームを発足し、小学校のPTA会長として学校のアスレチック作りに奔走し、子どものために何かをするのが好きだった。仕事を一緒にするうちに尊敬する父親に変わっていったが、振り返れば今は亡き父親の足跡をなぞるような日々を過ごしていると苦笑する。
 「僕も子どもが小さい頃は青年部活動に熱中し、ほとんど家にいませんでした。あの時にもっと傍にいてあげられたらと今も振り返ることがあります。でも子どもたちとは仲良しで、高校2年生になった娘とよく一緒に出かけています。父は忙しい中、年1回の家族旅行は欠かしませんでした。僕も見習っています。
 イヤイヤ継いだ家業でしたが、今になれば半田に住み、多くの仲間に恵まれた幸せな毎日、両親には感謝の言葉しかありません」


ちょっと一息
「タカちゃん、もってるから。」トライアスロンを始めてからよく言われる言葉です。「アイアンマン70.3セントレア常滑Japan」に青年部有志メンバーと一緒に僕は、リレーで4回目(2012年)から出場しています。毎回走りながら「こんな苦しいこと何でやっているんだろう」と思いながら、トライアスロン中毒に襲われています(笑)。
 昨年夏は中国アモイ大会に出場。通常、大会の様子がネットに上がりますが、いつも最下位に近い僕の写真はほとんどありません。でも今回はエントリーした段階から心配してくれる運営の方がいて、ボロボロなって倒れそうになっている僕がネットにたくさん上がっていました(笑)。その時の制限時間は8時間(7時間56分でゴール)。そんな数分を残しての奇跡のゴールが何度もあります。今夏は、最終目標である佐渡国際トライアスロンにチャレンジしたいです。


間瀬 貴裕氏
1972年半田市生まれ。93年名古屋工業専門学校建築科卒業。同年ヤマネ(株)入社し、関建築事務所出向。2010年現職。当所議員。