半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
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前向きにチャレンジ

2019年2月21日(木)

株式会社七番組 取締役副社長 石川  理 氏

 就任時、コミュニケーションの大切さ、自らの考えを発信し、モチベーションを高め仕事に向き合って欲しいと社員に望んだ。同時に安全・安心も強調した。
 「私の重要な業務のひとつが安全・安心の確保です。現場でのそれは最優先ですが、整理整頓が安全の第一歩と思っています。例えば机の周りを整理する、そういう物理的な行動習慣は、物事の進め方、考え方が整理されていることにつながり、安全行動への近道だと考えています」
 東工大大学院卒業後に日本ガイシ(NGK)に入社。現職の4代目副社長に正式に就任したのは平成29年12月。歴代の副社長はNGKから輩出される縁での入社だが、同社との関わりは長く深い。
 「40年ほど前、当社がNGKのエンジニアリング事業本部(エン本、現在はメタウォーター(株))の工事を請け負ったのが始まりのようです。当社に入って重責を果たせるかという不安はありましたが、前任者の籾山さんが東京勤務時代の直属の上司、安心感はありました」
 NGKに入社後、エン本に配属となり、上下水道の処理プロセスの開発部で知多工場に勤務。個性の強い集団の中で、いかに自己アピールし、コミュニュケーションを図っていくか、やりがいを感じながら苦労もあったが、人として成長していく上でも大事なプロセスだったと振り返る。
 「平成15年までエン本の様々な技術部門を経験、東京勤務の4年間は仕事の醍醐味も味わいました。都庁、流域下水道の処理プラントのプロマネを任され、新しいことを盛り込めという厳命の下で、自らクリアする強い意志が求められました。失敗の責任は自分でかぶるという極めて体育系気質の職場でしたが、全面的に任せてもらえるので、モチベーションも上がり、自身の完成度を高めていくことを常に考えていました。プラントが完成した時の喜びと共に、工事が完遂するまでに多くの方々に支えられていることを実感しました。真摯に物事を受け止め、正しく自己主張し、潔く譲り、信頼関係を築いていくことを肝に銘じてきました」
 肉体的にきつい時もあったようだが、スキー、水泳、テニス、陸上競技で鍛えた体力で乗り切ったと笑う。
 その後、セラミックス事業本部へ異動、ディーゼ車用排ガス浄化用担体(DPF)の海外投資の業務と巡り合い、そしてポーランド勤務時代も貴重な体験をした。ディーゼルエンジン車が約半数を占める欧州は、21世紀初頭から自動車排ガス規制法が段階的に強化され、DPF装着需要の増加が見込まれたことから、同社は平成15年にポーランドに進出、平成24年に3代目社長に就任した。
 「一昨年の平成29年6月までポーランドに5年間駐在していました。製品の需要拡大に伴い、工場を短期で拡大増強し、就任時から現地従業員は2倍強となりました。ポーランド人は自己主張が強く頑固な一面もありますが、とても親日的で思いやりのある、真面目で実直な人々です。合理的な説明は必須ですが、一旦、理解すると、オリジナルな提案を展開して、幾つもの大きな生産改善を実現してくれました。私自身、強く主張して前に出ていくタイプではなく、個々の個性を尊重すべきと考えています。でも変わらなければならない時、合理的な理由を強く押し出し理解を求めるよう心がけています。これは欧州の人たちから学んだ、交渉術と思っています」
 これまでの様々な経験を財産として就任した。自らが良かれと思ったことは社員も経験して欲しいと、一例として海外へ出ることも大切なことと語る。また、働き方改革関連法の成立に伴い、取り組みを始めたが、業界ならではの課題も多い。
 「成し遂げるために議論を深めていかねばならないと考えています。以前なら悩みを聞いたり一緒に飲みにいったりしたものですが、今は時代も立場も変わり、そういう機会も少なく一抹の寂しさを感じています」
 仕事に奔走される日々ではあるが、一時の息抜きは月数回のゴルフと音楽鑑賞。ショパンが誕生したポーランド在住時は、クラシック音楽を堪能し、最近では夫人と共にミスチルや中島みゆきのコンサートに出かけ、会場と一体となって楽しんだ。また、語学力をキープするために英会話スクールに通うなど、時間を有効に使って有意義な日々を送る。
 「色々な人生の過ごし方があります。季節に応じた楽しみ、一人で出来ること、家内、友人と楽しめること、様々なことに前向きにチャレンジしたいと思っています」
 就任して1年余経った今、次なるステップに向けてチャレンジし始めた。


いしかわ・おさむ氏プロフィール
昭和30年豊橋市生まれ。富山大学を経て、昭和56年東京工業大学大学院機械工学科修了。同年日本ガイシ(株)入社。平成15年までエンジニアリング事業本部(東京本部、名古屋事業所、知多事業所)、セラミックス事業本部を経て同24年にポーランド工場代表取締役社長。同29年現職。好きな言葉:有言実行。知多市在住。当所常議員。

 





日本初に挑む

2018年12月10日(月)

愛知道路コンセッション株式会社 代表取締役社長 東山  基 氏

 文系、理系の様々な分野に興味を持っていたが、漠然と、後世に残る壮大なモノづくりの世界に関わりたいと、土木工学を学ぶ道を選択した。
 「大学院時代は洪水関係の研究をしながら、研究室対抗の野球大会を楽しみ、公私ともに充実した学生生活でした。前田建設工業(株)に入社し、構造物の設計等に携わるなど、土木だけでなく様々な部署を経験して、苦悩しつつも色々なことを学んできました」
 建設省(現国土交通省)の外郭団体「建設経済研究所」に出向し、社会資本整備、建設産業に関する調査・研究等に携わった。建設会社だけでなく、建設省、金融関係など異業種の人達との協働は、仕事への取り組み方を考える切っ掛けともなり、自身の大きな分岐点ともなった。
 「一例として、当時日本は入札契約方式が従来の金額だけでなく、技術・提案等も含めた総合評価方式を導入しつつある時代でした。その経過を実体験し、事業本来の目的や方針を意識して向き合うことの重要性を再確認しました。この出向は当社には初めて要請されたもので、社内では経験者がいなくて、試行錯誤しながらの日々でした」
 その後、『日本初』という仕事に立て続けに関わってきた。PFI法(民間が事業主体として、その資金やノウハウを活用して公共事業を行う方式)を日本が導入した際は、国内の第1号案件(千葉市消費生活センター・計量検査所複合施設)を担当し、代表企業となった。2013年、同社が『脱請負』というビジネスモデルに取り組み始め、再生可能エネルギー事業とコンセッション(公共施設などで施設の所有権を公共主体に残したまま、民間事業者が経営を行う)を2本柱に掲げた。国内第1号のコンセッション方式の仙台空港特定運営事業を、他企業とコンソーシアム(共同体)を組み獲得。その後、愛知県有料道路でも日本の道路コンセッション(日本の道路コンセッション第1号)でも運営権を得て、愛知道路コンセッション(株)を設立した。いずれもメイン担当者として多様な関係者間の調整を図り獲得へと導いた。
 「様々な難題を抱えながら、多様な人々との出会いの中で、話をいかに引き出すことが出来るか、いい聞き手になることを心がけてきました。現職に就いた時、今までの集大成となると熱い思いで居を移し、日々やりがいを感じています。第1弾として、今年7月大府と阿久比のパーキングエリア(PA)のリニューアルオープンをしました。“和の大家”とも称される建築家・隈研吾氏の設計・デザイン監修の建物内には知多半島の食材を使った有名シェフ3名のコラボによる、レストランメニューやお土産品を提供しています」
 季刊で発行されるリーフレット「愛知多の種」には両PAの自慢メニューや生産者の紹介、お土産もの、イベント等が満載され、情報発信のツールとして重要な役割を果たしている。
 「リニューアル後の交通量は前年比で2〜3%増えていますが、周辺地域の方々と協力、連携しながら、地域の活性化、交流人口の拡大の助力になれたらと考えています。また、地元の方にも地域の魅力がプラスαになったと感じていただけたら嬉しいですね」
 知多半島を知ることも大切なことと、1年くらい前から『知多四国八十八ヶ所巡り』を始めた。最寄りの駅まで公共交通機関で行き、そこからひたすらグーグルマップを頼りに歩く。人気のない山道に案内され戸惑うこともあったと苦笑する。
 「平均20キロくらい歩き、あと20ヶ寺ほど残っていますが、今年中の満願を目指しています。単身生活をして2年ほどになりますが、知多の酒に舌鼓し、楽しい半田ライフを送っています」

 土木技術者として入社したが、畑違いの部署、日本初の事業への取り組み、試行錯誤の中で真摯に社会人としての人生を送ってきた。苦悩や迷い、感激もあったが、どんな時にも『山よりでっかい猪(しし)は出ん』という言葉を自分に言い聞かせ、泰然自若に構えて仕事と向き合ってきた。今日からもまた、新たなチャレンジが始まる。


ひがしやま・もとい氏プロフィール
昭和38年大阪府生まれ。平成元年京都大学大学院土木研究科修了。同年前田建設工業(株)入社。16年総合企画部経営企画グループ副部長。23年建築事業本部PPP推進部長。25年事業戦略室PPP事業部長。28年事業戦略本部副本部長。28年現職。30年前田建設工業(株)半田市在住。当所議員。





真摯・正直・創造・挑戦

2018年11月16日(金)

株式会社黒牛の里 取締役  市野 喜啓 氏

 『まるでジェットコースターのように、上昇、急降下を繰り返し、幾度も転機がありました』と振り返る。高校時代に陸上400mで並みいる強豪校の選手を抑え、第39回国民体育大会・秋季大会で愛知県代表に踊り出た。
 「女子からサインを頼まれ、新聞や雑誌から取材を受け、地球は僕を中心に回っていると有頂天になってしまいました。でも怪我をしたら、スーと波が引いていくように周りから人がいなくなり、人間不信に陥り人との接触が嫌になり、それから地道な20年間が始まりました」
 長男として多くを背負わされ育てられたことに反発し、親元を離れたくて東京の大学に進んだ。学生時代は北海道でスキーを存分に楽しみ、就職先も北海道に本社を置く企業の内定をもらった。その報告を受けた両親の悲しそうな顔を見た時に、名古屋に戻ることを決意した。
 「名鉄百貨店に就職しましたが、馴染めず2年で退社しました。当時はパソコンが珍しい時代で、ハローワークで見たマイクロコンピュータの世界に興味を持ち、名古屋に本社があるIT企業に就職をしました。ところが『大学が東京だったね』と言われ、東京支社勤務となり、その後15年ほど東京で生活をしました」
 初めてインターネットという言葉を耳にし、日本でのWindows95の発売時にカウントダウンも経験し、見るもの聞くもの全てが新鮮だった。結果主義が性に合い、やりがいも生まれ充実した毎日だった。だが、人事異動での配属先は安定はしていたが、枠にはめられた仕事をこなす部署だった。やがて疲弊し、がむしゃらに仕事をしてきた人生を見つめ直すために退職し、1年半ほど気の赴くままに時を過ごした。
 「仕事もなくひとり身、自暴自棄な僕を心配し、親戚一同が就職、結婚の口利きをしてくれ、JAとの関わりが生まれました。その後、知多牛の生産者が創業した『黒牛の里』に関わることになりました。周りの方々にお世話になり辿り着いた場所、失敗は許されないと覚悟して仕事と向き合いました。親戚縁者が機会を与えてくれたから、今の僕があると感謝しています。知多牛のブランド化と、この地域を農業の発信拠点として、未来永劫継続していく企業に成長させるという使命を全うするために、僕が親戚縁者が機会を与えてくれたように、周りの人達に様々な機会を与え続けていこうと思っています」
 本店、CLACITY店を統括しながら、farm restaurant黒牛の里の立ち上げから関わってきた。飲食店のノウハウを学んだり書物を紐解いたが、心に響くものはなく、決定打が定まらないまま準備し始めた。だが開店を目前に控え『僕の世界観になっていない』とオープンが出来ず、眠れないほどの恐怖心と闘いながら、開店にこぎつけた。
 「人材も揃い、メニューのクオリティの高さも充分でありながら、何に躊躇していたのか、今なら明解に答えることが出来ます。僕は商品を売るということだけでなく、知多牛という素材を通して人々が笑顔で楽しむ場所を作りたかったのです。『あなたのために』という思いで、足が不自由な方は入り口近くの席にご案内し、寒ければ膝掛けを用意する。だから当店にはマニュアルはありません。マニュアルは人間らしさが欠如してしまうように感じています」
 農業の発信拠点としての使命を果たすために、様々な取り組みを始めた。敷地内にはバーベキューハウスや観葉植物などを扱う店舗も誕生した。また、近隣の店舗や農業生産者や団体と一緒に『(NPO)ごんのふるさとネットワーク』を立ち上げ、この地域一帯の環境を利用しながら、それぞれが経済的な基盤が確立できるような体制になればと足並みを揃えた。
 「時代が変革している今こそ、常に新しい方向に向かっていくことが大切と思っています。僕もそういうタイミングの繰り返しでした。目標を明確に創造し、真摯に挑戦すれば道は開けます」


いちの・よしひろ氏プロフィール
昭和41年半田市生まれ。平成2年中央大学経済学部卒業。同年(株)名鉄百百貨店入社。4年萩原電気(株)入社。19年(株)げんきの郷入社。平成24年黒牛の里入社。好きな言葉:真摯・正直・創造・挑戦。趣味:ゴルフ・旅行・美味しいものを食べること。半田市在住。当所議員。


 
 





聞くは一時の恥 聞かぬは一生の恥

2018年9月25日(火)

昭永ケミカル株式会社 半田工場 工場長 中里明文 氏

 大学の研究室OBが多く在籍する同社に入社し、最新設備が完備された、つくば工場が社会人としてのスタートだった。入社した年に電子材料(薬液)の生産が始まり、関わることになった。建屋を建築し、新規分野進出の重要な事業だった。
 「以後17年間、つくば勤務でした。その間、新規分野の仕事に携わることが多かったですね。ある時、新幹線の洗面所の塗装開発を任されたことがありました。反射率の高い、顔が映るレベルのものを要求されたのですが、全く未知の世界で、何を聞けばいいのかさえも分かりませんでした。勉強不足は否めず、恥ずかしく衝撃的だったのですが、貴重な経験をさせていただき、以後どんなことでも聞くようにしています。正に『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』です」
 ある時は、ISO9000取得の任務を受けた。半田工場が最初の取得工場となり、9ヶ月半、半田で暮らし、骨格づくりに奮闘した。外部講師の指導を受けながら、ISOの基本規格を同社のシステムに置き換えていく難解な作業は、自分でも意外なほどにすんなり頭に入り、講師からも高評価を受けた。
 「学生時代は特に勉強した訳でもなく、自分の得意分野が分からなかったのですが、この分野は自分の中で秀でた所かなと思うと嬉しかったですね。思い起こせば、小学校の頃に両親から、国語と算数の文章問題のようなドリルをやらされていました。また、高校卒業後は3年間派遣の仕事などをやっていて、その間も乱読していました。それらの体験が活かされていると感じています。今は子どもに算数と国語さえやっておけば、どこでも生きていけるよと豪語しています(笑)」
 以後、複数の工場でのISO9000、14000取得の担当者として尽力した。その作業は会社の仕組みを学び、『初めて自分なりに成果が出せた』という自信にもつながり、以前にも増して仕事に真っ正面から取り組む日々が始まった。当時最新工場であった神戸工場長を経て、現職として半田工場に赴任してきたのは5年前のことだった。
 「半田工場は塗料の生産が主力で、シンナーに長年関わってきた私にとって、新しい分野の仕事でした。それに加えて仕事量と生産性が合致せず、最も課題を抱えている工場と評されているので、不安が大きかったですね。極端なことを言えば、神戸工場での1年がこちらでは1・2週間に値するほど、多くの課題が山積しています」
 赴任して最初に掲げた抱負は方針管理の確立だった。それはISOの的確な可動にもつながり、得意分野の取り組みであった。ひとつずつ克服し、今年も新たな方針に向かい着実に進捗している。片や『半田工場長は一番プレッシャーが多い』とも言われている。先日もストレスチェックを受けた。
 「私はストレスを溜めないために、慎重に考えながら、的確で迅速な判断が必要と考えています。状況判断のためには現状を知ることが必要ですが、知らないことは聞いています。とかく工場長は何でも知っていると思われがちですが、『今更だけど』と、今も分からないことは聞いていますよ(笑)。経験を積んだ今、少しは的確に対処できるようになったのかなと自負しています。でも確かにたくさんのプレッシャーを感じていますね。6年目を迎えた今、色々な課題に本腰を入れて取り組んでいます」
 『寂しくない?ひとりは大変?』という言葉をかけられることもあるようだが、単身生活も8年目を迎え、楽して楽しんでいると笑う。
 「神戸時代はジムに通っていました。今はその時間も取れずランニングを始めましたが、半月板を損傷してウォーキングになりました。精神的に追いつめられるのはいけないと、身に染みて感じていますので、休日は何もせず、頭を休めていることが多いですね。今は仕事一筋ですが、これから何かやりたいことを探そうかなと思っています」
 中学校時代から人の陰口を聞かないようにと『知らぬが仏』が座右の銘だった。責任ある立場に立った頃から『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』を座右の銘にした。聞くこともままならなかった、あの衝撃的な経験を心に留め、自戒の念を込めて。


なかざと・あきふみ氏プロフィール
昭和43年神奈川県藤沢市出身。平成6年千葉工業大学工業化学科卒業。同年昭永化学工業(現昭永ケミカル(株))入社、つくば工場配属。平成23年神戸工場長。25年現職。当所議員。






ひとりのお客さまのために

2018年8月30日(木)

ユニー株式会社 ピアゴ ラ フーズコア 半田清城店 店長 三村 容 氏

 大学4年間、ドーナッツ屋でアルバイトをし、接客の面白さを体感した。当時スーパーマーケットは伸び盛りで、様々な挑戦に挑む機会、肌で感じる業績、不特定多数の顧客の対応に興味を抱き、衣食住の生活必需品を提供する総合スーパー・ユーストアに入社、希望した青果部門の配属となった。
 「市場に日参し仕入れ、販売する日々が始まりました。初めて踏み入れた市場は別世界で、独特な雰囲気に呑み込まれましたが、四季を感じ、活気ある空間は魅力的でした。天候により商品価格は変動します。売りたいもの、低価格商品の買い付けのために、市場に向かう時間帯を考え、相場のタイミングを図り、その商品が店頭で売り切れた時、やりがい、達成感があり面白い部署でした」
 8年ほど市場に通い続けた後、副店長、店長を経て、当店に着任したのが2年前。その間、組織変更によりユニーと合併し、時代の流れの中で、戸惑いながらも試行錯誤し業績の向上を図った。
 「ユニーは日本各地にそれぞれのコンセプトを持った店舗ブランドを展開し、食品に特化した都市型小型スーパー『ピアゴ ラ フーズコア』を開店したのが平成15年です。その後各地で店舗を開店し、私が名古屋の柴田店に店長として赴任したのが平成24年です。4年後、半田清城店に配属されましたが、地域によって店の特性が異なっています。その地域性を考えながら、どんな『売り場』にするのかではなく、お客さまが買うための場所『買い場』として、気持ちよく買い物をしていただける店づくりが必須です。お客さまの要望に機敏に応え、『ひとりのお客さまのために‥‥』そういう積み重ねが大切と考えています。常連さんを増やすのは私の仕事であり、目標です」
 昨今は、買うためだけでなく、会話を楽しむためや情報を得るために来店する方も多く、役割も多様になったようだ。店サイドも売るだけで忙しかった時代から、商品の提案や説明をしながら購買につなげるというスタイルに変遷してきた。
 「店の感じが良い、店員さんが親切などの接客が大きなウェイトを占めていると感じています。当店は変わったもの、新商品を積極的に扱うこともコンセプトとし、驚きと発見をご提供できる店でありたいと思っています。また、近くに保育園や小学校があり、お子さんも多く来店されるので、レジ近くで折り紙を配布したり、お子さん専用のスタンプカードを作成したり、お子さんアイテムのイベントを増やし始めました。私は子どもが好きで、接していると楽しいですね。赴任して2年目を迎え、この地域の傾向も分かってきました。これからは本当の意味で、地域のために始動します」
 また、客層を見ながら、最適な売り方をその場で決断し購買へ導く。そのために常に店内を歩き、状況を把握する。そんな毎日を送っているためか、休日には自然の中の管理釣り場で、ゆったりと釣り糸を垂れる。
 「体を動かさなくてもいいでしょう(笑)。元々アクティブで、外で過ごすことが好きですが、通勤時間が長くなり、ジム通いも釣りも暫くはお預けです。今は、会社の通信教育制度を利用し、室内で学べるボールペン字講座を受けています」
 店舗を運営するためには、衛生管理者(国家資格)、防火管理者などの様々な資格が必須で、勉強のために時間を割くことも多い。
 「趣味に関するものにもトライしようと、ワイン好きなのでソムリエを目指しましたが、添削期限に間に合わずリタイヤしました。再挑戦しようと思っています。
 日々、不特定多数のお客さまが来店され、新商品が生まれ、止まっていることはありません。常に挑戦、何事にも前向きに取り組もうと思っています。接客の面白さに魅かれてこの世界に飛び込みましたが、お客さま相手の仕事は私の天職だと思います」


みむら・やすし氏プロフィール
昭和40年名古屋市生まれ。62年名城大学商学部経済学科卒業。同年(株)ユーストア入社、佐屋店配属。平成9年赤池店副店長。24年ピアゴ ラ フーズコア柴田店店長。28年現職。当所議員。名古屋市在住。