2018年11月16日(金)
『まるでジェットコースターのように、上昇、急降下を繰り返し、幾度も転機がありました』と振り返る。高校時代に陸上400mで並みいる強豪校の選手を抑え、第39回国民体育大会・秋季大会で愛知県代表に踊り出た。
「女子からサインを頼まれ、新聞や雑誌から取材を受け、地球は僕を中心に回っていると有頂天になってしまいました。でも怪我をしたら、スーと波が引いていくように周りから人がいなくなり、人間不信に陥り人との接触が嫌になり、それから地道な20年間が始まりました」
長男として多くを背負わされ育てられたことに反発し、親元を離れたくて東京の大学に進んだ。学生時代は北海道でスキーを存分に楽しみ、就職先も北海道に本社を置く企業の内定をもらった。その報告を受けた両親の悲しそうな顔を見た時に、名古屋に戻ることを決意した。
「名鉄百貨店に就職しましたが、馴染めず2年で退社しました。当時はパソコンが珍しい時代で、ハローワークで見たマイクロコンピュータの世界に興味を持ち、名古屋に本社があるIT企業に就職をしました。ところが『大学が東京だったね』と言われ、東京支社勤務となり、その後15年ほど東京で生活をしました」
初めてインターネットという言葉を耳にし、日本でのWindows95の発売時にカウントダウンも経験し、見るもの聞くもの全てが新鮮だった。結果主義が性に合い、やりがいも生まれ充実した毎日だった。だが、人事異動での配属先は安定はしていたが、枠にはめられた仕事をこなす部署だった。やがて疲弊し、がむしゃらに仕事をしてきた人生を見つめ直すために退職し、1年半ほど気の赴くままに時を過ごした。
「仕事もなくひとり身、自暴自棄な僕を心配し、親戚一同が就職、結婚の口利きをしてくれ、JAとの関わりが生まれました。その後、知多牛の生産者が創業した『黒牛の里』に関わることになりました。周りの方々にお世話になり辿り着いた場所、失敗は許されないと覚悟して仕事と向き合いました。親戚縁者が機会を与えてくれたから、今の僕があると感謝しています。知多牛のブランド化と、この地域を農業の発信拠点として、未来永劫継続していく企業に成長させるという使命を全うするために、僕が親戚縁者が機会を与えてくれたように、周りの人達に様々な機会を与え続けていこうと思っています」
本店、CLACITY店を統括しながら、farm restaurant黒牛の里の立ち上げから関わってきた。飲食店のノウハウを学んだり書物を紐解いたが、心に響くものはなく、決定打が定まらないまま準備し始めた。だが開店を目前に控え『僕の世界観になっていない』とオープンが出来ず、眠れないほどの恐怖心と闘いながら、開店にこぎつけた。
「人材も揃い、メニューのクオリティの高さも充分でありながら、何に躊躇していたのか、今なら明解に答えることが出来ます。僕は商品を売るということだけでなく、知多牛という素材を通して人々が笑顔で楽しむ場所を作りたかったのです。『あなたのために』という思いで、足が不自由な方は入り口近くの席にご案内し、寒ければ膝掛けを用意する。だから当店にはマニュアルはありません。マニュアルは人間らしさが欠如してしまうように感じています」
農業の発信拠点としての使命を果たすために、様々な取り組みを始めた。敷地内にはバーベキューハウスや観葉植物などを扱う店舗も誕生した。また、近隣の店舗や農業生産者や団体と一緒に『(NPO)ごんのふるさとネットワーク』を立ち上げ、この地域一帯の環境を利用しながら、それぞれが経済的な基盤が確立できるような体制になればと足並みを揃えた。
「時代が変革している今こそ、常に新しい方向に向かっていくことが大切と思っています。僕もそういうタイミングの繰り返しでした。目標を明確に創造し、真摯に挑戦すれば道は開けます」
2018年9月25日(火)
大学の研究室OBが多く在籍する同社に入社し、最新設備が完備された、つくば工場が社会人としてのスタートだった。入社した年に電子材料(薬液)の生産が始まり、関わることになった。建屋を建築し、新規分野進出の重要な事業だった。
「以後17年間、つくば勤務でした。その間、新規分野の仕事に携わることが多かったですね。ある時、新幹線の洗面所の塗装開発を任されたことがありました。反射率の高い、顔が映るレベルのものを要求されたのですが、全く未知の世界で、何を聞けばいいのかさえも分かりませんでした。勉強不足は否めず、恥ずかしく衝撃的だったのですが、貴重な経験をさせていただき、以後どんなことでも聞くようにしています。正に『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』です」
ある時は、ISO9000取得の任務を受けた。半田工場が最初の取得工場となり、9ヶ月半、半田で暮らし、骨格づくりに奮闘した。外部講師の指導を受けながら、ISOの基本規格を同社のシステムに置き換えていく難解な作業は、自分でも意外なほどにすんなり頭に入り、講師からも高評価を受けた。
「学生時代は特に勉強した訳でもなく、自分の得意分野が分からなかったのですが、この分野は自分の中で秀でた所かなと思うと嬉しかったですね。思い起こせば、小学校の頃に両親から、国語と算数の文章問題のようなドリルをやらされていました。また、高校卒業後は3年間派遣の仕事などをやっていて、その間も乱読していました。それらの体験が活かされていると感じています。今は子どもに算数と国語さえやっておけば、どこでも生きていけるよと豪語しています(笑)」
以後、複数の工場でのISO9000、14000取得の担当者として尽力した。その作業は会社の仕組みを学び、『初めて自分なりに成果が出せた』という自信にもつながり、以前にも増して仕事に真っ正面から取り組む日々が始まった。当時最新工場であった神戸工場長を経て、現職として半田工場に赴任してきたのは5年前のことだった。
「半田工場は塗料の生産が主力で、シンナーに長年関わってきた私にとって、新しい分野の仕事でした。それに加えて仕事量と生産性が合致せず、最も課題を抱えている工場と評されているので、不安が大きかったですね。極端なことを言えば、神戸工場での1年がこちらでは1・2週間に値するほど、多くの課題が山積しています」
赴任して最初に掲げた抱負は方針管理の確立だった。それはISOの的確な可動にもつながり、得意分野の取り組みであった。ひとつずつ克服し、今年も新たな方針に向かい着実に進捗している。片や『半田工場長は一番プレッシャーが多い』とも言われている。先日もストレスチェックを受けた。
「私はストレスを溜めないために、慎重に考えながら、的確で迅速な判断が必要と考えています。状況判断のためには現状を知ることが必要ですが、知らないことは聞いています。とかく工場長は何でも知っていると思われがちですが、『今更だけど』と、今も分からないことは聞いていますよ(笑)。経験を積んだ今、少しは的確に対処できるようになったのかなと自負しています。でも確かにたくさんのプレッシャーを感じていますね。6年目を迎えた今、色々な課題に本腰を入れて取り組んでいます」
『寂しくない?ひとりは大変?』という言葉をかけられることもあるようだが、単身生活も8年目を迎え、楽して楽しんでいると笑う。
「神戸時代はジムに通っていました。今はその時間も取れずランニングを始めましたが、半月板を損傷してウォーキングになりました。精神的に追いつめられるのはいけないと、身に染みて感じていますので、休日は何もせず、頭を休めていることが多いですね。今は仕事一筋ですが、これから何かやりたいことを探そうかなと思っています」
中学校時代から人の陰口を聞かないようにと『知らぬが仏』が座右の銘だった。責任ある立場に立った頃から『聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥』を座右の銘にした。聞くこともままならなかった、あの衝撃的な経験を心に留め、自戒の念を込めて。
2018年8月30日(木)
大学4年間、ドーナッツ屋でアルバイトをし、接客の面白さを体感した。当時スーパーマーケットは伸び盛りで、様々な挑戦に挑む機会、肌で感じる業績、不特定多数の顧客の対応に興味を抱き、衣食住の生活必需品を提供する総合スーパー・ユーストアに入社、希望した青果部門の配属となった。
「市場に日参し仕入れ、販売する日々が始まりました。初めて踏み入れた市場は別世界で、独特な雰囲気に呑み込まれましたが、四季を感じ、活気ある空間は魅力的でした。天候により商品価格は変動します。売りたいもの、低価格商品の買い付けのために、市場に向かう時間帯を考え、相場のタイミングを図り、その商品が店頭で売り切れた時、やりがい、達成感があり面白い部署でした」
8年ほど市場に通い続けた後、副店長、店長を経て、当店に着任したのが2年前。その間、組織変更によりユニーと合併し、時代の流れの中で、戸惑いながらも試行錯誤し業績の向上を図った。
「ユニーは日本各地にそれぞれのコンセプトを持った店舗ブランドを展開し、食品に特化した都市型小型スーパー『ピアゴ ラ フーズコア』を開店したのが平成15年です。その後各地で店舗を開店し、私が名古屋の柴田店に店長として赴任したのが平成24年です。4年後、半田清城店に配属されましたが、地域によって店の特性が異なっています。その地域性を考えながら、どんな『売り場』にするのかではなく、お客さまが買うための場所『買い場』として、気持ちよく買い物をしていただける店づくりが必須です。お客さまの要望に機敏に応え、『ひとりのお客さまのために‥‥』そういう積み重ねが大切と考えています。常連さんを増やすのは私の仕事であり、目標です」
昨今は、買うためだけでなく、会話を楽しむためや情報を得るために来店する方も多く、役割も多様になったようだ。店サイドも売るだけで忙しかった時代から、商品の提案や説明をしながら購買につなげるというスタイルに変遷してきた。
「店の感じが良い、店員さんが親切などの接客が大きなウェイトを占めていると感じています。当店は変わったもの、新商品を積極的に扱うこともコンセプトとし、驚きと発見をご提供できる店でありたいと思っています。また、近くに保育園や小学校があり、お子さんも多く来店されるので、レジ近くで折り紙を配布したり、お子さん専用のスタンプカードを作成したり、お子さんアイテムのイベントを増やし始めました。私は子どもが好きで、接していると楽しいですね。赴任して2年目を迎え、この地域の傾向も分かってきました。これからは本当の意味で、地域のために始動します」
また、客層を見ながら、最適な売り方をその場で決断し購買へ導く。そのために常に店内を歩き、状況を把握する。そんな毎日を送っているためか、休日には自然の中の管理釣り場で、ゆったりと釣り糸を垂れる。
「体を動かさなくてもいいでしょう(笑)。元々アクティブで、外で過ごすことが好きですが、通勤時間が長くなり、ジム通いも釣りも暫くはお預けです。今は、会社の通信教育制度を利用し、室内で学べるボールペン字講座を受けています」
店舗を運営するためには、衛生管理者(国家資格)、防火管理者などの様々な資格が必須で、勉強のために時間を割くことも多い。
「趣味に関するものにもトライしようと、ワイン好きなのでソムリエを目指しましたが、添削期限に間に合わずリタイヤしました。再挑戦しようと思っています。
日々、不特定多数のお客さまが来店され、新商品が生まれ、止まっていることはありません。常に挑戦、何事にも前向きに取り組もうと思っています。接客の面白さに魅かれてこの世界に飛び込みましたが、お客さま相手の仕事は私の天職だと思います」
2018年6月29日(金)
かつてのJR半田駅周辺は屋台が軒を並べ、陶器市等の催し物が開かれ、市内で最初のスーパーマーケットがあり、活気あふれる街だった。子ども時代に訪れたそんな街に馴染みが深く、地元企業で働きたいと思った時、迷わず同金庫を志望した。
「本店営業部で15年ほど融資担当をした後は、新規出店した昭和町支店に次長として赴任しました。住吉町駅西支店、成岩支店が控えた新店はエリアが狭く、業績を延ばすことに苦労をしましたが、誠実な対応を心がけてきました。新規開拓、顧客回りなどの業務を担当しましたが、私の名字は知多半島では半田に多く、『半田の人ですか?』『どこの本美さん?』と親しみを感じていただき、会話の糸口となることも多く、地元企業に勤務ならではの経験をさせていただきました」
預金額の増加が最優先課題であった時代で、その後、本部業務推進部に配属となった時も、そのために尽力した。お楽しみ積金(積金契約で年1回の名産品等のお届け)同金庫での年金受取者対象の旅行、観劇会と様々なキャンペーン企画を発案した。
「商品によって業績が左右されますから、重要な仕事をしていると自負していました。尾張エリアはお得感がある商品が業績の向上に直結してきますね(笑)。その後成岩支店長、本部経理部、企画部、人事部を経て、平成28年に現職に就きました。就任時に芸術家年鑑に掲載されている同金庫職員の筆でしたためられた座右の銘『全身全霊』『雲外蒼天』を額装し、理事長室と役員会議室に掲げて自身への戒めにもしています。全身全霊を傾けて仕事に邁進する、就任時の決意です」
今年5月にJR半田駅付近連続立体交差事業で、半田駅付近の線路約2.6キロが高架になり2027年度に完成することが発表され、関連事業として半田駅前土地区画整理事業も進められている。
「この付近の商店街の会合で勉強会の開催を提案させていただきました。待っているだけでなく、情報交換、意見交換をしながらみんなで考えていかないと、高架になっても街は何も変わりません。私が子どもの頃に見た、半田市内で一番活気があった、あの賑やかさ、輝きを取り戻したいと思っています。地域の金融機関として地域の活性化・発展が、ひいては当金庫の発展につながっていきます」
また、同金庫は地域のためにと、例年8月に開催されている『キャナルナイト』の後援、『はんしんこどもまつり(9月8日開催)』同金庫の書の達人、石川鳴洲氏を講師に迎えての『こども習字教室』信用金庫の日の6月15日に、新入女性職員5名が一日警察官として活動する『交通安全街頭キャンペーン』など、多様な行事を開催している。理事長として、土・日曜日のイベントに参加したりと、多忙な毎日を送っている。
「300人の職員の生活と、地域活性化に寄与する責任を重く受け止めています。理事長という立場をいただいた今、さらにその気持ちが強くなりました。私は過去に幾度か大病をし、1年3カ月ほど休職をしています。退職勧告されても当たり前の状況だったのですが、復職の機会を与えてくれた当金庫に深く感謝しています。今、こうした立場をいただいたのも運命的なものを感じ、恩返しをしなさいと言われているように思っています」
子どもにもその姿を見せたくないような闘病生活だったというが、ここで終われないという思いと、持ち前の考え込まないポジティブな思考で試練を乗り切った。そんな辛い経験をしたからこそ、これからどんなことがあっても耐えられる。あの時の苦しさと比べれば楽じゃあないかという思いがあり『雲外蒼天』という言葉も心の支えにしていると言う。
「多忙で精神的にきついこともありますが、何も考えずにクラシック音楽を聞く時と、子どもたちの成長した姿を見る時が心休まり、幸せな時間です。明日への活力も生まれ、全身全霊で仕事に向き合えます」
2018年6月13日(水)
小学校の書き初めにも書いた『気力と充実』。たまたま見かけた言葉だが、いつも心に刻み、道を拓いてきた。高校まではサッカーに明け暮れ(中学3年時、東京都大会3位)、大学ではボートに熱中し(全日本大学選手権6位)、そのボート部OBも多く在籍していた同社で、社会人としてスタートした。そこでもボートの三菱選抜に入り、海外遠征も経験。
「大学のボート部監督に、同級生との今の絆を一生変わらぬものにするためにも、みんなそれぞれ別の会社に行けと言われ、同期みんなで話し合って、私は学生時代一番尊敬する先輩が在籍していた当社に入社することに決めました。今では当時監督が言われた言葉の真意が解る年齢になりました。新人で本店営業部に配属されて以降の15年間は東京、名古屋で営業を担当しました。企業の皆様に直接保険のご提案をすることが好きで、東京では当時はさほど大きくなかった企業に根性だけで飛び込み、取引していただけるまで粘り、取引後の企業と共に成長できることに喜びを感じて日々営業をしていました。名古屋でもその手法で、街に多くの看板が出ている企業に目を付けて飛び込み続けたのですが、厳しい現実が待っていました」
以後その失敗を教訓にして、自らが飛び込む営業スタイルを改め、代理店さんと共に企業の皆様にご提案することに重きを置くようになる。流れを見て調整しながら動く。それはスポーツを通じて培ったもののようだが、スポーツトレーナーを夢見たこともあるほど運動は身近なものだった。
「スポーツマネジメント関連業務を志し、グループ会社に異動願いを出して異動を認めていただけたのですが、なぜか企業のメンタルヘルス対応に没頭する5年間が待っていました。当初メンタルヘルスに門外漢の私は周りの専門職の意見や要望を収集し続け、1年かけて何とかメンタルヘルス対応商品を開発しましたが、発売当初はまったく売れずに事業撤退寸前まで追い込まれました。しかし、色々な方との出会いを通じて、撤退ギリギリの時期に私のことを以前より知ってくださっていた方が支援者として現れ、事業として動き始めることができました。この時ほど、人とのつながりや縁を深く感じたことはなく、今でも感謝の気持ちで一杯です」
今ではその商品『TMS NAVIGATOR』は同社の主力商品となり、様々な業界から注目されている。この仕事の影響もあってか、資格マニアにもなり健康管理士、衛生管理者、健康経営アドバイザー、福祉住環境コーディネーターなどの様々な資格取得にも挑戦し続けている。
「それらの資格は私の財産で、いつかは健康管理に関わりながら、社会のお役に立てればと思っています。そんな夢を抱きながら、昨年4月半田支社長として着任しました。1年経った今、地域に密着する大切さを痛感しています。会社も今年度より『クオリティNo.1への挑戦』を新中期経営計画のタイトルとしていますが、半田支社でも『Good HANDA Quality〜知多半島の豊かで快適な社会生活と経済の発展に貢献する〜』を掲げ、代理店さん、社員のスキル・チーム力のクオリティアップを図り、お客さまのために、出来得ることはすべてやろうと支社メンバーと共に取り組んでいます。東京2020オリンピック・パラリンピックゴールドパートナーとしての、オリパラを軸としたイベントの開催等、地方創生に資する活動に、半田市をはじめとした様々な行政とも連携していきたいと思っています。そして本活動を通じて、一人でも多く方々に、東京海上日動のファンになっていただければと願っています」
自らの資格を活かした健康経営セミナー等の活動も企画中で、健康管理を通じて社会に貢献したいという、夢の実現も同時に適えようと邁進中である。そして、地域密着がより図られるようにと半田ロータリークラブにも入会し、さらに知多半島をPRするためにボクサーとしても『知多の赤龍、日吉二郎』(赤は好きな色で母校のスクールカラー&龍は小学生時代よりファンであった中日ドラゴンズマスコット)のリングネームで40歳代のスーパーフェザー級日本チャンピオンを目指し、5月20日にゴングを鳴らす。5年前には日本フェザー級チャンピオン、昨年11月には中部・北陸地区ライト級チャンピオンに輝いた。
「次戦は40代で3階級制覇を達成できる最後のチャンス。どんなに飲んだ翌朝も、朝焼けの運河沿いを毎日5キロ走り、帰宅後は筋トレ、休日はジム通いで特訓中です。仕事も試合も考え思い悩むこともありますが、最終的には、やるとなったら今がベストと開き直れます(笑)。いつも勝つために全力で戦っていますが、ダメなら次また挑戦すればいい。常に挑戦!日々、ポジティブシンキングで、『気力と充実』です」