2025年6月6日(金)
モノづくりの世界に憧れ地元企業の同社に入社し、衣浦製作所・生産管理部門に配属された。1989年は『冬の時代』を乗り越えた建設業界では、今では想像もつかないような勢いでインフラ整備が進み、全国でビッグプロジェクトが立ち上がった年でもあった。
「その2年後、1991年の入社直後から橋梁工場の当製作所で、レインボーブリッジ、明石海峡大橋、名港トリトン、東京湾アクアラインなど、次から次へとビッグプロジェクトに関わりました。設計から架設まで5年以上かかる大規模な橋梁工事はジョイントベンチャー(JV)として取り組み、一丸となって地図に残るものを造り上げることは楽しく、達成感、やりがいもありました。また、他社の人と仲良くなって飲みに行くことも多く、仕事はみんなの力が集結してこそと体感し、社会人として恵まれたスタートを切りました」
1896年創業の同社(衣浦製作所は50周年)は国内で創業時の社名を守り続けている数少ない企業であり、社会の求める基幹施設づくりを仕事とし、使命としてきた。鉄道車両の製造販売を目的として設立し、その技術は産業輸送用機器、橋梁建設、建設機械、環境機器、ハイテク農業プラントへと裾野を広げてきた。氏は4年ほどの本社勤務(名古屋市)以外を、橋梁・輸送機器部門(高圧ガス等を運ぶタンクローリー、産業車両)の生産管理者として品質・コスト管理を担当し、仲間と共に経営効果を上げるために尽力してきた。
「現場での思い出や時代背景は印象深く残っています。東京湾アクアラインは衣浦製作所の岸壁で組み立て出荷し、本当に大変な作業でした。明石海峡大橋の建設中に阪神淡路大震災が発生し、対岸に避難していた人がテントで暮らしていた情景は今も瞼に浮かびます。豊田大橋建設も忘れられない現場です。建築家・黒川紀章氏が、恐竜が一歩踏み出したイメージのスケッチを描き『橋にして!』と始まったプロジェクトでした。橋は左右対称が基本形状と考えられている中で、バランスを欠きながらも美しく、橋全体が斜めに傾いたような構造は難解でやりがいのある仕事でした。衣浦大橋にも関わり、地元の橋は普段生活をしている中で利用する機会も多いので、思い入れも深くなります。今思い起こせば、どの現場も苦労の連続でしたが、自分の仕事が地図に残る、それだけでも大きな誇りになっています」
『橋は造ったら地域の人に絶対喜ばれる』若い頃に諸先輩方から言われた言葉であり、その使命感を身を持って実感した。いつの間にか橋を造るという仕事が好きになり、楽しみながら仕事に熱中した。その後、輸送機器部門にも関わり、橋にはない魅力に惹かれ、どの現場でも仕事に没頭し、やりがいを感じた。2019年貴重な経験と統率力を持って製造部長として三度目の衣浦製作所勤務となり、昨年7月現職に就いた。
「5年前に輸送機器部門の生産拠点を豊川製作所からここに移転・統合し、 “『運ぶ』と『架ける』、積み上げた比類なき実績”を強みとする衣浦製作所としてリニューアルしました。各部署で製造するものはそれぞれで、お客様も公共・民間と異なっていても、モノを作る精神に変わりはなく、 QCDS(品質、コスト、納期、安全)のレベルアップが重要です。どれも工事管理の大切な基本ですが、最も優先すべき指標は安全と品質、そしてお客様との信頼関係であり、それらの厳守が私の使命です。
今は直接現場に関わっていない寂しさを感じながら、ここで製作し色々な分野で活躍している製品全てに関わっていると、自分なりに解釈しています(笑)。当社のロゴ入りのタンク車がまちで走っているのを見ると嬉しくなり、今年2月に種子島宇宙センターでA3ロケットが打ち上げられ、当社で製造した『大型自走式キャリア』が、発射台までロケットを運ぶ姿がテレビで映し出された時も嬉しくなりました(笑)」
同社は今年、大型自走式キャリアの自動運転システムを開発した。運転技量が求められる狭い場所においても、高精度に自動走行できるシステムを実現し、超重量物を運ぶ企業で、それぞれの目的のために活用されることが期待されている。人手不足に悩む業界からも大きな期待が寄せられており、創業以来129年の時を経て培った技術は、産業の発展を支える物流と交通の分野にも活かされ、進化し続けている。
「モノづくりの世界に入って34年、常に当事者意識を持って仕事をしてきましたが、つくづく一人でやれる仕事は高が知れていると思い、課題を共有しチームとして闘ってきました。特に役職に就いてからはチームで闘う必要性を強く感じるようになりました。入社して5、6年経った頃、仕事には厳しく、社員一人ひとりに声を掛けてくれたのは当時の衣浦製作所長でした。私は、今そのように実践できているか?と問うことがあります。そうありたいイメージはありますが、まだまだですね」
●ちょっと一息●
アウトドア派で、子どもが独立しカミさんと愛犬と一緒に月に2回ほどキャンプに出かけています。自然の中で食べたり飲んだりするのが好きで楽しみです。家では料理はしないのですが、バーベキューはお手のもので、外ではよく働きます(笑)。カミさんにお付き合いしてもらえないと困りますからね(笑)。
子ども会の会長をしていた時に誘われて、お祭りにも関わるようになり山車を曳いています。楽しいですよ。子どもにお囃子や太鼓を教える役目も頂戴し、春祭りの時期は毎日忙しく、今夜(取材日:4月21日)も教えに出かけます。刈谷市生まれの私もすっかり阿久比町民になりました。
1968年愛知県刈谷市生まれ、阿久比町在住。91年岐阜大学工学部機械学科卒業。同年日本車輌製造㈱入社。衣浦製作所配属。茨城・大利根工場、衣浦製作所、本社、豊川製作所を経て、2019年衣浦製作所製造部長。24年現職。当所常議員
2025年6月6日(金)
社会福祉協議会(以下:社協)は社会福祉法に基づき、全市町村に独立した形で組織されている社会福祉法人です。昭和28年発足の半田市社協は総務グループ、権利擁護グループ、ボランティア地域ささえあいセンター、半田市障がい者相談支援センター、半田市包括支援センターで構成され、この4月からは77名のスタッフでスタートしました。
社協は『相談』のイメージが強いですが、例えば就労を希望する障がいをお持ちの方と企業をつないだり、発災時には災害ボランティアセンターの役割を担いますので、日頃から災害時の備えを一緒に考えていくなど、半田市にお住まいの方の困りごとなどのご相談をお受けするだけではなく、企業の社会貢献活動もお手伝いもさせていただいています。
半田にお住まいの全ての方のふだん(毎日)のくらし(生活)がしあわせ(笑顔)であるように、地域の方や地域で活動している方々と一緒に考え、一緒に行動します。地域での集まりや行事に出向き、「情報交換の場所がほしい」「お茶を飲みながら、おしゃべり出来る所があれば嬉しい」などの声をお聞きし、地域のみなさまの『あったらいいな!』を応援する、それが私たちの仕事です。ゼロから形を作り出すことを目標とし、「気づき」「動く」ことの出来る担い手の育成も目指しています。
「ふくし」は特定の誰かだけのものではなく、身近なものであり自分ごととして捉えていただきたいのですが、その仕組み作りは難しい点が多くあります。子ども時代から「ふ・く・し」を知っていたら、将来地域や周りに暮らす人に目を向けるきっかけになるのではと期待し、市内小学校で「ふ・く・し」の授業のお手伝いをしています。昨年は市内の全保育園・幼稚園でご当地ヒーロー『はんだまちヒーローズ』の協力を得てヒーローショーによる「ふくし共育」を実施し、より小さいころから「ふ・く・し」を知る機会をつくりました。
私はボランティア地域ささえあいセンターで生活支援コーディネーターという仕事をしています。生活支援コーディネーターとは、『地域ささえあい推進員』ともいわれて、高齢者を含むすべての人が、住み慣れた地域で安心して暮らしていけるよう
に、生活支援や介護予防の体制づくりを進めることが役割です。中学校区ごとにひとりずつ配置されており、私は乙川中学校区を担当しています。「知っている顔だと相談しやすいよね」と、チラシに顔写真を載せてPRしています。勢いでそうなってしまったのですが(笑)、後で周りから「個人情報は大丈夫なの?」と心配されました。自治区に依頼をし、回覧板にも私の顔写真のついたチラシが貼ってあるので、先日、公民館のパン教室に参加した時に「あんたの顔見たよ!」と言っていただけたり、知らない方からも「松本さん」とか「涼子さん」と呼んでいただけるので、少しは皆さんの身近になれているのかな、と嬉しくなります。
社協は皆さんからのご相談にそれぞれのグループ、センターが連携し総合的に対応します。『私の仕事』ではなく、『私たちの仕事』です。チームで考え、全員でカバーし合いながら取り組み、半田市の行政計画である『半田市地域福祉計画』の基本理念『誰もが自分らしく生きられるまち“はんだ”』の実現を目指しています。
コンピュータ会社の営業員だった私は、結婚を機に半田市民となりました。一人で何かしているのが好きで引きこもりタイプですが、娘のためにお友達を作ろうと重い腰をヨイショと上げて、市が主催する乳幼児学級に入ったのが社協とのご縁ができるきっかけでした。乳幼児学級は母親が子育ての勉強中に、託児ボランティアさんが子どものお世話をしてくださっていて「子どもを預けて自分の時間が作れるなんて凄い!」と感激して、私にもお手伝いできるかもしれないと、ボランティアに目を向けました。まちづくりのために乳母車でまちを歩いてと言われれば子どもとお出かけし、私も子どもも知り合いが少しずつ増えていきました。そうしているうちに「社協でお手伝いをして」と声をかけられ、パートとして働くことになりました。仕事を始めた当初、主人から「仕事が趣味だね」と言われ、よっぽど楽しそうに働いていたのでしょうね(笑)。社協は自分がやってみたいこと
を実現しやすい組織ですので、頑張りがいもあります。
コロナ禍で、生活に困窮する方々を「食べ物で支援を」、と取り組むこととなった『フードドライブ』は、会議所の女性会さんが社会貢献活動の一環として事業に取り入れてくださったことで、市民のみなさまに広く認知されたと感じています。女性会さんが主催したフードドライブ事業でも、はんだまちヒーローズの力を借りてショーを行いました。これまで私たちがPRしても届かなかった場所にまで女性会メンバーの想いやお力で届けていただき、社協には毎月協力いただける地域の方、事業所さんからの品々が届いています。感謝しかありません。私も一メンバーとしてお手伝いしながら、メンバーのパワーに驚き、ついていくのが精一杯です。
これからも色々な場面で地域づくりを共に考え、『あったらいいな!』を地域にお住まいの方たちと一緒に作っていけたらと思っています。
■ 半田市雁宿町1-22-1 瀧上工業雁宿ホール内 ■TEL/0569-25-0002
2025年5月2日(金)
半田市乙川にあるMaruru整体院。ここは、ただ痛みを取り除くだけの場所ではない。身体の声に耳を傾け、その人自身が本来持っている力を引き出すことを大切にしている。院長の北原氏は、丁寧なカウンセリングと確かな技術で、多くの人の
悩みに寄り添い続けてきた。
痛みの先にある、本当の原因を探る
肩こりや腰痛、頭痛、スポーツ障害、産後の不調̶̶。Maruru整体院に訪れる人の症状はさまざまだが、その根本原因は必ずしも痛みのある場所にあるとは限らない。「痛みは身体からのサイン。本当に必要なのは、そのサインがなぜ出ているのかを知ること」北原氏はそう語る。カウンセリングと身体のチェックを通して、生活習慣や姿勢を確認し、不調の根本を探り出す。施術は、身体に無理なく働きかける優しい手技が中心。歪んだ骨格を整え、筋肉や関節のバランスを取り戻すことで、自然治癒力を高めていく。
心まで軽くなる場所
Maruru整体院の施術室は、落ち着いた空間が広がっている。リラックスできる環境づくりを大切にしているのは、北原氏が「身体と心はつながっている」と考えているからだ。身体の不調は心にも影響するもの。だからこそ、施術中の会話や患者のちょっとした表情にも気を配る。自分の身体の状態を知り、少しずつ良くなっていくのを感じることで、自然と心も軽くなっていく。
地域とともに歩む整体院
半田市乙川に根ざしたMaruru整体院は、地域の人々とのつながりを大切にしている。健康に関するイベントや講座を開催し、セルフケアの方法や姿勢改善のポイントを分かりやすく伝えているのもその一環だ。痛みが和らぐだけでなく、心まで軽くなる。Maruru整体院は、そんな場所であり続ける。
「Maruru(マルル)」という名前は、タヒチ語で「ありがとう」という意味だ。北原氏は、この言葉に込めた感謝の気持ちを大切にし、患者一人ひとりと正面から向き合い、共に現実を変えていきたいと心の底から思っている。
人間には本能的に「変わりたくない」という思考が備わっている。今日の身体の状態を維持しようとセルフケアを頑張っても、48時間後にはその気持ちは薄れてしまうことがほとんどだ。この現象は、自分の意思とは関係なく、誰にでも起こる自然の原理だ。もし「自分は意思が弱いから」「昔から変わらない」と感じてしまうことがあっても、それが人間の「原理原則」であり、不変の事実だと北原氏は語る。
Maruru整体院では、この現実を踏まえて、患者と共に「変革」を起こすことを大切にしている。身体のケアだけでなく、思
考や心の状態にもアプローチし、患者が自然に目指すゴールに向かえるようサポートを行っている。表面的な会話では現実は変わらないため、患者と真摯に向き合い、患者が抱える辛さや困難を解消する手助けをしている。
北原氏は、今後もMaruru整体院を通じて、地域の人々が心身共に健やかな生活を送れるよう、感謝の気持ちを忘れずに支え続けるつもりだ。
( 取材:大岩咲紀)
【住所】半田市花田町1‒13‒2
【代表】北原克彰
【営業時間】9:00~13:00 15:00~21:00
【TEL】0569ー84ー1810
【定休日】水曜日午後、木曜日
2025年5月2日(金)
木曽川沿いに位置する山間の町、岐阜県恵那郡坂下町(現中津川市)で、衣料品販売店の三男として生まれた。幼い頃から両親の仕入れに同行し、町の会館などで衣料品を販売する時は、ちょこんと座り手伝いをした。家業に励む両親の姿を見て、いずれは後継者の道を視野に入れながら、時には両親の想いを受け止めながら歩んできた。
「父から、興味ある経済の世界を知るためには、証券会社が良いだろうとアドバイスもあり、丸万証券㈱(現東海東京証券㈱)に入社し、本店(名古屋市)勤務になりました。田舎とは違い夜も明るい栄の街で『盆踊りみたい』と言われながら流行っていたディスコに通い、居酒屋に出没し(笑)、栄の夜を堪能しました。事務員として、与えられた仕事をこなす日々が5年ほど続き、その間、半田支店にも勤務しています」
半田支店時代はバブル全盛期、全社員がエネルギッシュに仕事に遊びに心血を注いだ。同支店には現社長の北川尚子氏を始め同社の要となる将来の役員が多く在籍していた。幼い頃、両親の人と接する姿や人との距離感を見て学ぶことが常だったように、北川社長らの行動や思考力に目を見張り、自然に学んでいった。そんな中で証券不況に伴い営業員の増員が図られ、氏も営業員に転属となった。
「どんなに頑張っても成績が上がらず苦戦していました。高知支店時代に上司から「全てやったと言っているが、これとこれを全てやったんだな?」と、具体例を示され、自身の行動を見つめ直し、休日も返上し、全てのお客様に会いに行きました。(好きなゴルフを楽しんだのも1 度だけでした)。結果的には成績に繋がりませんでしたが、『全店で顧客との接触率が一番多い』と評価していただきました。表面に現れる華やかな部分の成果だけでなく、日々の行動を評価してくださる人がいた、私を見ていてくれた人がいたことに救われました」
また、ある役員に「本社に戻って頑張りたいと、みんな言うんだよ。でも帰ってくると、その時覚えたことや頑張ったことを忘れて流されていくんだよね」と言われた。その一言は衝撃的で、その時の気持ちを忘れないためにも、お客様に会い続けようと誓った。『お客様のニーズに応えるためにお客様を知る』という営業活動の真髄にも触れたこの時代は、その後の仕事の仕方にも色濃く反映し、大きな転機となった。その誓いは次の春日井支店で、全店トップ営業員として表彰され形になり、今でもあの役員の言葉を心に深く刻み続けている。
「春日井支店で出会った方が株が好きで、『あんたはどんな銘柄がいいと思うか?』と聞かれ、株という生き物を扱いながら確かな返答をるために私も株に強くなろうと無我夢中で学び、お客様に育てられきました。その後、支店長の就任年齢は40歳からという制度変更の波に乗り、41歳で中津川支店長に赴任しました。知り合いも多い地元なので支店長というお役に躊躇したのですが、父から『嬉しい』と言われ、親孝行が出来たと私もその立場を嬉しく受け止めました。実は苦しい時代に家業を継ぐことが頭の中にありました。課長、第一課長と昇進し、充実した時間を過ごすようになった頃、父から『そのまま仕事を続けた方が良いだろう』と言われ、私も仕事の面白さ、やりがいを実感していたので、このまま働き続ける道を選びました。折しも大規模小売店舗立地法の運用が緩和され、田舎にも大型店の進出が進み、廃業に近い形で家業を畳みましたが、父の心の片隅に私に継いで欲しかったという想いがあったのかもしれません」
支店長に就任した時、『時代の流れに抗うこともなく、流されながら生きてきて、この立ち位置にいる』と振り返ったと語るが、表には現れない『努力』の積み重ねが結実した結果であろう。2023年、4店目の支店長として、半田支店に戻ってきて2年余り。半田商工会議所、半田ロータリークラブの人々と接し、生の声を聞く機会も多く、経営者の抱える課題解決のお手伝いが支店長の仕事であると真摯に向き合う。証券会社は投資のイメージが強いようだが、余剰不動産の売買、遺産相続の整理、相続対策、介護施設の紹介などの社会課題にも取り組み、豊かな老後のプランビジョンを提供している。
「歴史に学んで現状を把握し、未来を創造するのが『投資』という考え方もあります。金融庁の統計では金融の勉強をしている人は全国で7%位と示され、日本人は概して投資に後ろ向きな方が多いように感じています。私はより良い将来のためにもリスクに負けず、お客様の心理にストレスをかけない投資方法などの金融勉強会の開催は必要なことだと思っています。金銭はモノとサービスに変えてこそ、その価値が上がるのではないかと、ついつい考えてしまいます。証券マンの性でしょうか?」
『証券マンは良き卸問屋であれ』経営の神様・松下幸之助氏がナショナル証券の代表を務めていた時の名言で、氏が好きな言葉である。卸問屋の使命はモノの本質を深く見極め、安い時に商品を仕入れ、安く消費者に提供することである。証券マンも然りで、両親もその精神を貫いた。
「幼少期の頃から家業を通じて人との出会いに恵まれ、モノと人、この両方を見続けてきたと感じています。人との出会いは私に様々なチャンスを与えてくれ、本質を見定める力を養っていただけたのではないかと思っています。半田商工会議所さんは、多くの方との出会いの場所を提供してくださり、私の成長を促していただいた場所でもあります。本当にありがたいことです」
●ちょっと一息●
ゴルフは今も楽しんでいますが、基本的には一人でやれることが好きで、一人で考える時間は必要だと思っています。サウナでボーっとしたり、今からは田舎の山のお守りで(笑)、タケノコ、蕨、ふきのとう、タラの芽、茗荷採りで忙しくなります。例年、自作の釜で採ってきたものをアク抜きして湯がいて、周りの人に配り歩いています。
社会人になった時はキラキラする都会に憧れていましたが、今では田舎が好きで落ち着きます。母が一人で住む中津川に週末に帰り、母の命令下であれこれやっています。畑を耕し、耕運機をかけたり、石垣を直したり、やるべきことは楽しみながらやりたいと思い、試行錯誤しながら一人の時間を存分に楽しんでいます。近所では「親孝行息子」と言われているようで、ちょっと気恥ずかしいのですが。
私はプライベートでは寡黙なんです。家族(妻、二男一女)の会話に入れなくて(今時の言葉が難しいこともありますが)、聞いているだけ。周りの皆さんは想像できないかもしれませんね(笑)。また、今年から「楽器が弾けるといいな」と思ってフォークギター教室に通い始め、「マリーゴールド」を練習中です。これも一人で出来ることで、私の心休まる時間です。
将来は地元に帰って、ゴルフ、山菜採りをしながら、金融の勉強を子どもたちに教えられるような場所が提供出来ないかなと考えています。きっと、いつまでも証券マン気質が抜けないでしょうから。
1969年坂下町(現岐阜県中津川市)生まれ、名古屋市在住。87年中津川商業高校卒業。同年丸万証券㈱(現東海東京証
券㈱)入社。本社配属。93年まで事務職。94年から営業員として2004年高知支店、春日井支店を経て、10年中津川支店長、春日井・岐阜支店長を経て、23年現職。当所議員。金融部会副部会長。(令和7年3月10日取材時現在)
2025年5月2日(金)
人との出会いが新規事業への参入や、自社の発展に繋がることが多く、トーエイ㈱の関連会社(㈱バンショー)運営の『万笑庵』犬も大相撲の井筒親方(元関脇逆鉾)とのご縁から始まりました。ひょんなことから東浦に来られた親方に一目惚れされ(笑)、親交を深めていた25年ほど前に「夏場所での宿舎はないだろか?」と相談を受けました。ロータリークラブのメンバーである乾坤院の住職にその話をしたら「うちを使って」と快諾を得ました。とは言え相撲部屋を迎える施設は整っておらず、町民の皆さんの力もお借りし土俵を作り、部屋を整え、後援会を立ち上げました。そして、広く町民に井筒部屋を応援していただきたいと、力士と触れ合える『ちゃんこ会』を企画しました。力士が作るちゃんこ鍋は連日大盛況で売切状態、力士は近くの店のハンバーガーを食べる始末でした(笑)。ある日、親方から「ハンバーガーでは屈強な体が作れない。皆さんが他でちゃんこ鍋を食べられる所はないのか?」と尋ねられ、1年くらいかけて探した店舗が今の『万笑庵』でした。空き店舗だった部屋を修繕、増築し、『ちゃんこ会』を開いていましたが、2009年に一般のお客さまをお迎えする『万笑庵』犬としてオープンしました。
料理好きな社員を井筒3兄弟の長男、元十両鶴嶺山のちゃんこ料理店に送り、井筒部屋の秘伝の味を学んできました。『万笑 庵』として店を構えた時から井筒部屋直伝の味は、京都で包丁を握り腕に定評のある日本料理の板前が、技とセンスとプライドをさりげなく忍ばせた『塩ちゃんこ』として、多くのお客様を魅了してきました。12年ほど前にうなぎ職人も加わり、『超一流料理人が作る日本料理とうなぎが食べられる店』として、名古屋・東京からもお客様が来店されています。また、私が育て漬けた沢庵の糠漬けも父直伝の味で、美味しいと評判です。
店名は私の父の名前『坂衛』と私の『昭』を音読みし、『万笑』という漢字を当てはめており、懇意にしていた100歳を迎える1日前に亡くなった方が書かれた書です。「“笑”の下がわざと犬になっている。この文字を見て笑いの絶えない店にしたらどうか」と言われましたが、墨汁が違う所に垂れてしまったようです(笑)。今もその方の顔が浮かんできます。本当に可愛がっていただきました。また、井筒親方が亡き後も、私と相撲とのご縁は途切れることなく、今は井筒部屋の流れを汲む『音羽山部屋名古屋後援会長』として大相撲を応援しています。店内には親方との思い出の品や大相撲にまつわる品々を展示しています。ぜひご覧ください。
半田青年会議所理事、PTA会長、東浦町商工会青年部長を掛け持ちしていた時には「仕事を疎かにしている」と父に叱られていましたが(笑)、今は東浦町観光協会の会長を務め、そのご縁で様々な方と出会い、貴重な経験をさせていただいています。東浦は徳川家康の生母『於大の方』が生まれ育った土地で、『於大まつり』が一大イベントとなっています。その祭りの一環『於大行列』は、於大姫と侍女や鎧を着た武将たちが八重桜の咲く『於大のみち』を練り歩きます。『東浦町商工会手づくりよろいの会』の皆さんと一緒に作った鎧をつけ、侍大将『水野信元』として行列を引率していましたが、会長の今は鎧は着られず歩くだけで、残念です(笑)。
また、地元の名所、旧跡等を学ぶために児童が作ったかるたで、小学生参加の『東浦かるた大会』は今年で20回目を迎えました。成長し読み手となった子どもたちや、かるたが縁で地元に帰ってくるお子さんもいらっしゃるようです。とても嬉しいことです。東浦町にある会社での生活が大半ですが、実は半田市の住人です。今、友人の画家や印刷会社の会長に協力いただき、半田の偉人や有名人、伝統文化等を紹介する『有脇かるた』を作っていて、完成を楽しみにしています。
両親が働き、三人兄弟の長男として生まれた私は家事や弟たちの面倒を見るのは当たり前と幼少の頃から考えていて、働くことに何の抵抗も感じていません。今も早朝から動き、毎日10人位の方とお会いしています。車の運転も好きで、この間は富山まで行ってきました。いつも着替える暇もないほど忙しくて、人と会う時も漬物を漬ける時も同じ服装ということもあります。スーツの袖口に糠がついていることも(笑)。
トーエイ㈱は私が社長の時の1995年、パナソニックが全国3000市区町村の中から、19箇所に家電再商品化工場を設置する際に日頃か らの営業努力を積み重ねた結果、指名を頂くことができました。家電は埋 める、燃やして処理をする時代の中で逸早くリサイクルに舵を切ったこ
と、当時のパナソニック副社長との出会いも一因と感謝しています。それにより、リサイクル会社としての地位を確立したと言っても過言でなく、多くの方にお世話になってきました。
私はいつも人との出会いを大切にし、その瞬間に心底その方と親しくなることを心掛け、自然に新しい付き合いも増えています。好奇心の塊の私はこれからも働き続け、動き続けます。どんな方と出会い、どんな刺激をいただけるのか、とても楽しみです。これからも声を掛けてくださる方がいれば、自分の出来ることをやっていこうと考えています。それで皆さんに喜んでいただき、地域と共に歩んでいきたいと思っています。
■知多郡阿久比町大字板山東台22
■TEL/0569-48-8889
■営業時間/11:30~14:00 (ラストオーダー13:30) 17:00~21:00(ラストオーダー20:30)万 庵HP
■定休日/木曜日、水曜日夜の部※ただし水曜日の夜は、会席のご予約(10名様以上)のみ営業。