半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
全てのトピックス

半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
全てのトピックス

大駒にしかできない仕事を目指して

2025年6月6日(金)

有限会社 大駒

㈲大駒は、創業149年を迎える歴史ある代々続く建築会社です。現在は5代目の榊原芳朗氏が代表を務め、若手大工の育成と、古い建物の保存・再生に力を注いでいます。
 同社の歴史は明治10年頃、芳朗氏の曽祖父・榊原為三郎氏が大工として創業したことに始まります。以降、祖父・駒吉氏、父・為吉氏と代を重ね、2001年には芳朗氏の入社を機に法人化し、㈲大駒を設立。2015年には現在の本社所在地へ移転し、芳朗氏が代表取締役に就任しました。
 芳朗氏は、刈谷市の白半建設㈱にて現場・営業・管理業務などを経験し、その学びをもとに家業への参画を決意。現在は新築およびリフォーム工事を中心に手がけていますが、住友林業ホームテックの指定工事店として、古民家の修復にも積極的に取り組んでいます。特に、知多半島に多く見られる「黒壁建物」の再生にも数多く携わっており、近年は歴史的建造物の保存に一層力を入れています。
 芳朗氏は語ります。「歴史的建造物には、その土地の文化や精神が宿っています。それを次の世代に伝え、視覚的にも残
すために、丁寧に保存していく必要があります。今後5年以内には事業承継も進めていきたいと考えています。」
 その事業承継の担い手が、次期後継者である榊原寛樹氏です。寛樹氏は碧南市の㈱梶川建設で土木・建築の現場経験を積んだ後、建築の仕事に魅力を感じ、2013年に25歳で入社。以降、リフォーム現場にて「見て学べ」の教えのもと、外注大工の補佐として約3年間実務を経験。現在も共に働く職人たちは55歳以上が中心であり、将来の職人不足の現実を実感した、といいます。寛樹氏は現在、当所青年部にも所属し、同世代の工事業者とのネットワークづくりにも取り組んでいます。
 芳朗氏と寛樹氏は「下請け仕事だけでは将来が厳しい。人と技術を育てることで、大駒にしかできない仕事を確立し、直接受注につなげていきたい」と語ります。その志のもと、若手大工の育成に本格的に着手しました。2018年には半田工業高校(現・半田工科高校)から卒業生を初採用し、以降も定期的に求人活動を実施。現在は3名の若手職人が大工見習いとして成長を続けています。
 入社後は、碧南市にある愛知建連技能専門校・木造建築科に、会社負担で週1回・3年間通学させ、実技と知識の両面から育成を行っています。同校では、現場作業では教えにくい伝統的な木造技術の習得が可能で、大工技能士資格の取得支援も受けられます。
 近年は、木材不足(ウッドショック)、新型コロナウイルス感染症の影響、2024年からの労働環境の変化(長時間労働の是正、人手不足、コスト増)など、建設業界は大きな転換期を迎えています。大駒でも新築工事の依頼が減少する一方で、リフォーム需要が拡大。現在、売上の約半分が口コミや紹介による直接受注となっています。
 2018年入社の若手社員(現24歳)は、今では現場を任されるまでに成長。新築ではあまり使われなくなった「曲尺(さしがね)」「鑿(のみ)」「鉋(かんな)」などの道具も使いこなし、次世代育成にも携わっています。
 同社が手がけた修復実績としては、半田市亀崎の伊東合資の酒蔵(本蔵および土蔵レストラン)、市内寺院の手水舎、本社建物(築60年の古民家をリフォーム)などがあります。
 寛樹氏は将来について、次のように語ります。「今後は若手社員に、大工と現場監督を兼任する“プレイングマネージャー”として、着工から完成まで一現場を任せていきたいと考えています。また、多機能工として大工以外の技術も身につけてもらいたい。私は営業・設計にも力を入れ、現場経験を活かして間取りや建築パースなどを用いた提案を通じ、お客様に完成イメージをしっかりお伝えしていきたいと考えています。最後に、今後も『大駒にしかできない仕事』の実現に向けて、確かな技術と熱意で地域社会に貢献していきます」( 取材:中村稔晴)

【住所】半田市清城町1-12-15
【代表】榊原 芳朗  
【TEL】0569-22-6240  
【休日】土・日  
【HP】https://daikoma.jp



大駒にしかできない仕事を目指して

2025年6月6日(金)

有限会社 大駒

㈲大駒は、創業149年を迎える歴史ある代々続く建築会社です。現在は5代目の榊原芳朗氏が代表を務め、若手大工の
育成と、古い建物の保存・再生に力を注いでいます。
 同社の歴史は明治10年頃、芳朗氏の曽祖父・榊原為三郎氏が大工として創業したことに始まります。以降、祖父・駒吉氏、父・為吉氏と代を重ね、2001年には芳朗氏の入社を機に法人化し、㈲大駒を設立。2015年には現在の本社所在地へ移転し、芳朗氏が代表取締役に就任しました。
 芳朗氏は、刈谷市の白半建設㈱にて現場・営業・管理業務などを経験し、その学びをもとに家業への参画を決意。現在は新築およびリフォーム工事を中心に手がけていますが、住友林業ホームテックの指定工事店として、古民家の修復にも積極的に取り組んでいます。特に、知多半島に多く見られる「黒壁建物」の再生にも数多く携わっており、近年は歴史的建造物の保存に一層力を入れています。
 芳朗氏は語ります。「歴史的建造物には、その土地の文化や精神が宿っています。それを次の世代に伝え、視覚的にも残
すために、丁寧に保存していく必要があります。今後5年以内には事業承継も進めていきたいと考えています。」
 その事業承継の担い手が、次期後継者である榊原寛樹氏です。寛樹氏は碧南市の㈱梶川建設で土木・建築の現場経験を積んだ後、建築の仕事に魅力を感じ、2013年に25歳で入社。以降、リフォーム現場にて「見て学べ」の教えのもと、外注大工の補佐として約3年間実務を経験。現在も共に働く職人たちは55歳以上が中心であり、将来の職人不足の現実を実感した、といいます。寛樹氏は現在、当所青年部にも所属し、同世代の工事業者とのネットワークづくりにも取り組んでいます。
 芳朗氏と寛樹氏は「下請け仕事だけでは将来が厳しい。人と技術を育てることで、大駒にしかできない仕事を確立し、直接受注につなげていきたい」と語ります。その志のもと、若手大工の育成に本格的に着手しました。2018年には半田工業高校(現・半田工科高校)から卒業生を初採用し、以降も定期的に求人活動を実施。現在は3名の若手職人が大工見習いとして
成長を続けています。
 入社後は、碧南市にある愛知建連技能専門校・木造建築科に、会社負担で週1回・3年間通学させ、実技と知識の両面から育成を行っています。同校では、現場作業では教えにくい伝統的な木造技術の習得が可能で、大工技能士資格の取得支援も受けられます。
 近年は、木材不足(ウッドショック)、新型コロナウイルス感染症の影響、2024年からの労働環境の変化(長時間労働の是正、人手不足、コスト増)など、建設業界は大きな転換期を迎えています。大駒でも新築工事の依頼が減少する一方で、リフォーム需要が拡大。現在、売上の約半分が口コミや紹介による直接受注となっています。
 2018年入社の若手社員(現24歳)は、今では現場を任されるまでに成長。新築ではあまり使われなくなった「曲尺(さし
がね)」「鑿(のみ)」「鉋(かんな)」などの道具も使いこなし、次世代育成にも携わっています。
 同社が手がけた修復実績としては、半田市亀崎の伊東合資の酒蔵(本蔵および土蔵レストラン)、市内寺院の手水舎、本社建物(築60年の古民家をリフォーム)などがあります。
 寛樹氏は将来について、次のように語ります。「今後は若手社員に、大工と現場監督を兼任する“プレイングマネージャー”として、着工から完成まで一現場を任せていきたいと考えています。また、多機能工として大工以外の技術も身につけてもらいたい。私は営業・設計にも力を入れ、現場経験を活かして間取りや建築パースなどを用いた提案を通じ、お客様に完成イメージをしっかりお伝えしていきたいと考えています。最後に、今後も『大駒にしかできない仕事』の実現に向けて、確かな技術と熱意で地域社会に貢献していきます」  ( 取材:中村稔晴)

【住所】半田市清城町1-12-15
【代表】榊原 芳朗  
【TEL】0569-22-6240  
【休日】土・日  
【HP】https://daikoma.jp



チームとして闘う

2025年6月6日(金)

日本車輌製造株式会社 輸機・インフラ本部 衣浦製作所長 清水 勇治氏

モノづくりの世界に憧れ地元企業の同社に入社し、衣浦製作所・生産管理部門に配属された。1989年は『冬の時代』を乗り越えた建設業界では、今では想像もつかないような勢いでインフラ整備が進み、全国でビッグプロジェクトが立ち上がった年でもあった。
 「その2年後、1991年の入社直後から橋梁工場の当製作所で、レインボーブリッジ、明石海峡大橋、名港トリトン、東京湾アクアラインなど、次から次へとビッグプロジェクトに関わりました。設計から架設まで5年以上かかる大規模な橋梁工事はジョイントベンチャー(JV)として取り組み、一丸となって地図に残るものを造り上げることは楽しく、達成感、やりがいもありました。また、他社の人と仲良くなって飲みに行くことも多く、仕事はみんなの力が集結してこそと体感し、社会人として恵まれたスタートを切りました」
 1896年創業の同社(衣浦製作所は50周年)は国内で創業時の社名を守り続けている数少ない企業であり、社会の求める基幹施設づくりを仕事とし、使命としてきた。鉄道車両の製造販売を目的として設立し、その技術は産業輸送用機器、橋梁建設、建設機械、環境機器、ハイテク農業プラントへと裾野を広げてきた。氏は4年ほどの本社勤務(名古屋市)以外を、橋梁・輸送機器部門(高圧ガス等を運ぶタンクローリー、産業車両)の生産管理者として品質・コスト管理を担当し、仲間と共に経営効果を上げるために尽力してきた。
 「現場での思い出や時代背景は印象深く残っています。東京湾アクアラインは衣浦製作所の岸壁で組み立て出荷し、本当に大変な作業でした。明石海峡大橋の建設中に阪神淡路大震災が発生し、対岸に避難していた人がテントで暮らしていた情景は今も瞼に浮かびます。豊田大橋建設も忘れられない現場です。建築家・黒川紀章氏が、恐竜が一歩踏み出したイメージのスケッチを描き『橋にして!』と始まったプロジェクトでした。橋は左右対称が基本形状と考えられている中で、バランスを欠きながらも美しく、橋全体が斜めに傾いたような構造は難解でやりがいのある仕事でした。衣浦大橋にも関わり、地元の橋は普段生活をしている中で利用する機会も多いので、思い入れも深くなります。今思い起こせば、どの現場も苦労の連続でしたが、自分の仕事が地図に残る、それだけでも大きな誇りになっています」
 『橋は造ったら地域の人に絶対喜ばれる』若い頃に諸先輩方から言われた言葉であり、その使命感を身を持って実感した。いつの間にか橋を造るという仕事が好きになり、楽しみながら仕事に熱中した。その後、輸送機器部門にも関わり、橋にはない魅力に惹かれ、どの現場でも仕事に没頭し、やりがいを感じた。2019年貴重な経験と統率力を持って製造部長として三度目の衣浦製作所勤務となり、昨年7月現職に就いた。
 「5年前に輸送機器部門の生産拠点を豊川製作所からここに移転・統合し、 “『運ぶ』と『架ける』、積み上げた比類なき実績”を強みとする衣浦製作所としてリニューアルしました。各部署で製造するものはそれぞれで、お客様も公共・民間と異なっていても、モノを作る精神に変わりはなく、 QCDS(品質、コスト、納期、安全)のレベルアップが重要です。どれも工事管理の大切な基本ですが、最も優先すべき指標は安全と品質、そしてお客様との信頼関係であり、それらの厳守が私の使命です。
 今は直接現場に関わっていない寂しさを感じながら、ここで製作し色々な分野で活躍している製品全てに関わっていると、自分なりに解釈しています(笑)。当社のロゴ入りのタンク車がまちで走っているのを見ると嬉しくなり、今年2月に種子島宇宙センターでA3ロケットが打ち上げられ、当社で製造した『大型自走式キャリア』が、発射台までロケットを運ぶ姿がテレビで映し出された時も嬉しくなりました(笑)」
 同社は今年、大型自走式キャリアの自動運転システムを開発した。運転技量が求められる狭い場所においても、高精度に自動走行できるシステムを実現し、超重量物を運ぶ企業で、それぞれの目的のために活用されることが期待されている。人手不足に悩む業界からも大きな期待が寄せられており、創業以来129年の時を経て培った技術は、産業の発展を支える物流と交通の分野にも活かされ、進化し続けている。
 「モノづくりの世界に入って34年、常に当事者意識を持って仕事をしてきましたが、つくづく一人でやれる仕事は高が知れていると思い、課題を共有しチームとして闘ってきました。特に役職に就いてからはチームで闘う必要性を強く感じるようになりました。入社して5、6年経った頃、仕事には厳しく、社員一人ひとりに声を掛けてくれたのは当時の衣浦製作所長でした。私は、今そのように実践できているか?と問うことがあります。そうありたいイメージはありますが、まだまだですね」

●ちょっと一息●
アウトドア派で、子どもが独立しカミさんと愛犬と一緒に月に2回ほどキャンプに出かけています。自然の中で食べたり飲んだりするのが好きで楽しみです。家では料理はしないのですが、バーベキューはお手のもので、外ではよく働きます(笑)。カミさんにお付き合いしてもらえないと困りますからね(笑)。
 子ども会の会長をしていた時に誘われて、お祭りにも関わるようになり山車を曳いています。楽しいですよ。子どもにお囃子や太鼓を教える役目も頂戴し、春祭りの時期は毎日忙しく、今夜(取材日:4月21日)も教えに出かけます。刈谷市生まれの私もすっかり阿久比町民になりました。

1968年愛知県刈谷市生まれ、阿久比町在住。91年岐阜大学工学部機械学科卒業。同年日本車輌製造㈱入社。衣浦製作所配属。茨城・大利根工場、衣浦製作所、本社、豊川製作所を経て、2019年衣浦製作所製造部長。24年現職。当所常議員





ふだんのくらしのしあわせ

2025年6月6日(金)

ボランティア地域ささえあいセンターセンター長 松本 涼子さん


 社会福祉協議会(以下:社協)は社会福祉法に基づき、全市町村に独立した形で組織されている社会福祉法人です。昭和28年発足の半田市社協は総務グループ、権利擁護グループ、ボランティア地域ささえあいセンター、半田市障がい者相談支援センター、半田市包括支援センターで構成され、この4月からは77名のスタッフでスタートしました。
 社協は『相談』のイメージが強いですが、例えば就労を希望する障がいをお持ちの方と企業をつないだり、発災時には災害ボランティアセンターの役割を担いますので、日頃から災害時の備えを一緒に考えていくなど、半田市にお住まいの方の困りごとなどのご相談をお受けするだけではなく、企業の社会貢献活動もお手伝いもさせていただいています。
 半田にお住まいの全ての方のふだん(毎日)のくらし(生活)がしあわせ(笑顔)であるように、地域の方や地域で活動している方々と一緒に考え、一緒に行動します。地域での集まりや行事に出向き、「情報交換の場所がほしい」「お茶を飲みながら、おしゃべり出来る所があれば嬉しい」などの声をお聞きし、地域のみなさまの『あったらいいな!』を応援する、それが私たちの仕事です。ゼロから形を作り出すことを目標とし、「気づき」「動く」ことの出来る担い手の育成も目指しています。
 「ふくし」は特定の誰かだけのものではなく、身近なものであり自分ごととして捉えていただきたいのですが、その仕組み作りは難しい点が多くあります。子ども時代から「ふ・く・し」を知っていたら、将来地域や周りに暮らす人に目を向けるきっかけになるのではと期待し、市内小学校で「ふ・く・し」の授業のお手伝いをしています。昨年は市内の全保育園・幼稚園でご当地ヒーロー『はんだまちヒーローズ』の協力を得てヒーローショーによる「ふくし共育」を実施し、より小さいころから「ふ・く・し」を知る機会をつくりました。
 私はボランティア地域ささえあいセンターで生活支援コーディネーターという仕事をしています。生活支援コーディネーターとは、『地域ささえあい推進員』ともいわれて、高齢者を含むすべての人が、住み慣れた地域で安心して暮らしていけるよう
に、生活支援や介護予防の体制づくりを進めることが役割です。中学校区ごとにひとりずつ配置されており、私は乙川中学校区を担当しています。「知っている顔だと相談しやすいよね」と、チラシに顔写真を載せてPRしています。勢いでそうなってしまったのですが(笑)、後で周りから「個人情報は大丈夫なの?」と心配されました。自治区に依頼をし、回覧板にも私の顔写真のついたチラシが貼ってあるので、先日、公民館のパン教室に参加した時に「あんたの顔見たよ!」と言っていただけたり、知らない方からも「松本さん」とか「涼子さん」と呼んでいただけるので、少しは皆さんの身近になれているのかな、と嬉しくなります。
 社協は皆さんからのご相談にそれぞれのグループ、センターが連携し総合的に対応します。『私の仕事』ではなく、『私たちの仕事』です。チームで考え、全員でカバーし合いながら取り組み、半田市の行政計画である『半田市地域福祉計画』の基本理念『誰もが自分らしく生きられるまち“はんだ”』の実現を目指しています。
 コンピュータ会社の営業員だった私は、結婚を機に半田市民となりました。一人で何かしているのが好きで引きこもりタイプですが、娘のためにお友達を作ろうと重い腰をヨイショと上げて、市が主催する乳幼児学級に入ったのが社協とのご縁ができるきっかけでした。乳幼児学級は母親が子育ての勉強中に、託児ボランティアさんが子どものお世話をしてくださっていて「子どもを預けて自分の時間が作れるなんて凄い!」と感激して、私にもお手伝いできるかもしれないと、ボランティアに目を向けました。まちづくりのために乳母車でまちを歩いてと言われれば子どもとお出かけし、私も子どもも知り合いが少しずつ増えていきました。そうしているうちに「社協でお手伝いをして」と声をかけられ、パートとして働くことになりました。仕事を始めた当初、主人から「仕事が趣味だね」と言われ、よっぽど楽しそうに働いていたのでしょうね(笑)。社協は自分がやってみたいこと
を実現しやすい組織ですので、頑張りがいもあります。
 コロナ禍で、生活に困窮する方々を「食べ物で支援を」、と取り組むこととなった『フードドライブ』は、会議所の女性会さんが社会貢献活動の一環として事業に取り入れてくださったことで、市民のみなさまに広く認知されたと感じています。女性会さんが主催したフードドライブ事業でも、はんだまちヒーローズの力を借りてショーを行いました。これまで私たちがPRしても届かなかった場所にまで女性会メンバーの想いやお力で届けていただき、社協には毎月協力いただける地域の方、事業所さんからの品々が届いています。感謝しかありません。私も一メンバーとしてお手伝いしながら、メンバーのパワーに驚き、ついていくのが精一杯です。
 これからも色々な場面で地域づくりを共に考え、『あったらいいな!』を地域にお住まいの方たちと一緒に作っていけたらと思っています。

■ 半田市雁宿町1-22-1 瀧上工業雁宿ホール内  ■TEL/0569-25-0002



心と身体に寄り添う

2025年5月2日(金)

Maruru整体院

半田市乙川にあるMaruru整体院。ここは、ただ痛みを取り除くだけの場所ではない。身体の声に耳を傾け、その人自身が本来持っている力を引き出すことを大切にしている。院長の北原氏は、丁寧なカウンセリングと確かな技術で、多くの人の
悩みに寄り添い続けてきた。
痛みの先にある、本当の原因を探る
 肩こりや腰痛、頭痛、スポーツ障害、産後の不調̶̶。Maruru整体院に訪れる人の症状はさまざまだが、その根本原因は必ずしも痛みのある場所にあるとは限らない。「痛みは身体からのサイン。本当に必要なのは、そのサインがなぜ出ているのかを知ること」北原氏はそう語る。カウンセリングと身体のチェックを通して、生活習慣や姿勢を確認し、不調の根本を探り出す。施術は、身体に無理なく働きかける優しい手技が中心。歪んだ骨格を整え、筋肉や関節のバランスを取り戻すことで、自然治癒力を高めていく。
心まで軽くなる場所
 Maruru整体院の施術室は、落ち着いた空間が広がっている。リラックスできる環境づくりを大切にしているのは、北原氏が「身体と心はつながっている」と考えているからだ。身体の不調は心にも影響するもの。だからこそ、施術中の会話や患者のちょっとした表情にも気を配る。自分の身体の状態を知り、少しずつ良くなっていくのを感じることで、自然と心も軽くなっていく。
地域とともに歩む整体院
 半田市乙川に根ざしたMaruru整体院は、地域の人々とのつながりを大切にしている。健康に関するイベントや講座を開催し、セルフケアの方法や姿勢改善のポイントを分かりやすく伝えているのもその一環だ。痛みが和らぐだけでなく、心まで軽くなる。Maruru整体院は、そんな場所であり続ける。
 「Maruru(マルル)」という名前は、タヒチ語で「ありがとう」という意味だ。北原氏は、この言葉に込めた感謝の気持ちを大切にし、患者一人ひとりと正面から向き合い、共に現実を変えていきたいと心の底から思っている。
 人間には本能的に「変わりたくない」という思考が備わっている。今日の身体の状態を維持しようとセルフケアを頑張っても、48時間後にはその気持ちは薄れてしまうことがほとんどだ。この現象は、自分の意思とは関係なく、誰にでも起こる自然の原理だ。もし「自分は意思が弱いから」「昔から変わらない」と感じてしまうことがあっても、それが人間の「原理原則」であり、不変の事実だと北原氏は語る。
 Maruru整体院では、この現実を踏まえて、患者と共に「変革」を起こすことを大切にしている。身体のケアだけでなく、思
考や心の状態にもアプローチし、患者が自然に目指すゴールに向かえるようサポートを行っている。表面的な会話では現実は変わらないため、患者と真摯に向き合い、患者が抱える辛さや困難を解消する手助けをしている。
 北原氏は、今後もMaruru整体院を通じて、地域の人々が心身共に健やかな生活を送れるよう、感謝の気持ちを忘れずに支え続けるつもりだ。
( 取材:大岩咲紀)
【住所】半田市花田町1‒13‒2
【代表】北原克彰  
【営業時間】9:00~13:00 15:00~21:00
【TEL】0569ー84ー1810
【定休日】水曜日午後、木曜日