半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

会員トピックス
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半田商工会議所 THE HANDA CHAMBER OF COMMERCE & INDUSTRY

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地域のため、従業員のために

2023年5月24日(水)

知多乗合株式会社 代表取締役社長 金森 隆浩 氏

 『子曰く、四十にして惑わず、五十にして天命を知る』。論語の一節に例え、56歳になった今、まだ天命を知るべくもないが、惑わずこのバス業界でお役に立とうと決意したのは12年前だったと振り返る。『電鉄はいいよ』という先輩の言葉と地元で働きたいという思いで名古屋鉄道に入社。時はバブル期、総合職の同期入社は80数名という異例の大量採用時だった。「何となく、ホワ~ンと入社しました」と笑う。  
 「入社4年後の1995年、グループの遊覧船事業である日本ライン観光に配属されました。安近短がもてはやされた時代、木曽川を下る
『日本ライン下り』の乗船料は3,400円と高額なため、集客に苦労していました。足繫く訪問しても成果が出ず、コースを組む提案型の営業をはじめました。周りから売れないと反対される中でも、上司からは理解してもらい、ヒット商品につながりました」  
 今でこそ当たり前になっている取り組みであるが、当時は全く新しい発想だった。自社の施設だけでなく、地元施設、周辺の見どころ、季節の商材等を絡ませ、地域一帯を巡る旅だった。鵜飼いもセットし季節は限定されたものの、初年度には1,000人が楽しんだ。負けず嫌いで、数字や結果にはとことんこだわり、成果を出すために常に真摯に取り組んだ。今もその姿勢は変わらない。  
 「2000年に名鉄本社の自動車企画管理部に配属となり、それ以降バス業界に関わっています。宮城交通に転勤し、運輸営業の部長として会社の再建に取り組んでいた2011年に、東日本大震災に遭いました。帰宅困難者の輸送を最優先にし、震災当日の深夜に臨時バスを出発させました。家族が行方不明の従業員、私は単身赴任で家族は安全地帯にいる、そんな後ろめたさを感じながら、震災後も欠かさずバスを走らせ続けました」
 刻々と変わる状況の中で3~4日ごとにダイヤ改正をし、バス停の時刻表入れ替えの手伝いもした。ある日、いつ来るか分からないバスをポツンと待つ高齢者と出会った。高齢者は涙ながらに『宮交さん、本当にありがとうね。こんな時にバスを走らせてくれてありがとう』と声をかけてくれた。その言葉に震撼し44歳だったその時、惑わずこの道を進もうと決意した。今までは予算を達成したとかICカードを導入したなど自己実現のための関わりだったが、バスはなくてはならない生活の足、地域社会のために、安心で便利で安価なバスを走らせ続けようと誓った。同時に従業員あっての事業、自宅の片づけも後回しにして懸命にバスを走らせる従業員への感謝を新たにした。  
 「バス業界に関わり23年、志を共にする全国の同世代の同業者の仲間との絆も深まりました。電話1本で悩みを解決し、最新情報の収集も瞬時に可能な『戦友』もいます。名鉄バス時代、訪日外国人にとって日本は安心な国であるが、便利な国にはほど遠いと、仲間たちと『JAPAN BUS LINES(全都市を結ぶ訪日外国人向けバス乗り放題パス・60数社加盟)』を立ち上げました。しかし今は全国を視野に入れるのではなく、知多半島にしっかり根を張った活動をしていきます」
 久しぶりに知多半島に縁もゆかりもない社長(13代目)として就任したのは1年ほど前。『現場を見て、現実を知ることが大切』と短パンとTシャツ、サングラス姿で週末に半島中の路線バスに乗車し、客層、路線の状況、乗務員の対応等を把握した。現実を知ることにより的確な対処ができ、地域に根付いた貢献が可能になると語る。着任後、新たに2市町のコミュニティバスも受託し、現在は7市町(美浜町・南知多町・阿久比町を除く)で運行。暮らしに密着した移動手段として地域貢献を果たしている。  
 「半田市は自治体だけでなく様々な団体や民間企業も積極的にいろいろなことに取り組み、元気がある地域だと感じています。その恩恵を受け、当社も多様な方面に伸びしろを期待でき、今年6月に創立80周年を迎え地域の皆様、従業員に感謝を込めて様々な企画をスタートしています。4月からはバスの後ろに『安全のため、左折時、交差点で一旦停止します』と記したステッカーを貼り、事故防止と乗務員に安心して停止できる背景を整え、ひいては地域の交通安全につながっていければと思っています。目標は高く掲げつつも一段ずつ登っていき、先ずは次のステージ『安全管理2.0』その次は『3.0』とバージョンアップしていきたいと思っています」
 ICカード乗車券の拡張、バス停標識のリニューアル、系統ナンバリングなど分かりやすい、利用しやすいバスを目指し、代表を兼任する名鉄知多バス旅行の『謝恩かもめツアー』を実施する。同時に従業員同志の連携・感謝のために、クラブ活動への支援、班活動の実施、担当役員制度を新設し、部下とのつながりの強化、またカタチも大切と半田営業所の建て替えを計画している。  
 「地域のため、従業員のために何をしたらいいのか?通勤中も街を歩いていても考え、会話からヒントをもらったり雑談から閃いたことも多くあります。だから従業員と一緒に喫煙所で嗜むタバコは止められません(笑)。楽しく仕事をすることがモットーですので、考え悩み続けていても、ストレスチェックでも、全くストレスなしという結果です。『やってみなはれ』の精神で、何でもやってみようと思っています」 
 惑わずこの道を進もう。その思いがカタチとなり、生活の一端となって、天命を知る日は近いだろう。

●ちょっと一息●
「サラリーマン人生が終わるまでに趣味をいっぱい持つといい」という叔父のアドバイスに影響され、
色々なことを始めました。横浜、大阪に住む大学時代の友と『振り子の法則』で3人の住む町を拠点に年1
回、自転車旅行をしています。昨年は知多半島一周でした。雨が降ったので半分は車でしたね(笑)。折り
たたみ自転車を携え、民宿やゲストハウスに泊まる気心知れた友との気ままな旅は私の大切な時間です。
 家族との時間も大切にし、息子1人、娘2人は私がスポンサーになる時は付き合ってくれますが、私が話
し出すと鬱陶しがられ長時間一緒は持ちません(笑)。妻には年1回、ちょっと豪華な食事会をセットして感
謝を伝えています。大学時代に出会った妻には感謝の一言に尽きます。

1966年岐阜県墨俣町(現大垣市)生まれ、稲沢市在住。1991年神戸大学教育学部卒業。同
年名古屋鉄道(株)入社。95年日本ライン観光(株)、2000年名古屋鉄道(株)自動車企画管理
部、08年宮城交通(株)営業推進部長、15年名鉄バス(株)経営統括部長、17年取締役経営企
画部長、21年取締役運輸本部長を経て、22年現職。当所常議員。



トライアル・アンド・エラー~確かなつみ上げを次代へ~

2023年4月6日(木)

半田商工会議所青年部 会長(有)鈴木製作所 代表取締役 鈴木 靖隆 氏

 時には自由に、時には自らを律して、そして時には使命感を課して日々を送ってきた。その姿は多様であるが、悩み戸惑いながらも、『外柔内剛』の精神で歩みはブレることはなかった。
 「大学3年生になる時に、海外で住みたいと外国語学部に転部希望の僕と、その流れを阻止したい母との間で軋轢があり退学。その後
はアパレル関係でアルバイトをし就職しました。多くの部下を抱える立場も経験しましたが、人間関係の構築が上手く出来ず退職しました。その頃の僕は尖っていて言葉もキツかったと反省し、それからは物腰を柔らかく敬語で話すように心がけました。その後は自由に、目的もなく過ごし、突如26歳で働いている人が眩しく見え、早く社会に戻りたい、人間になりたいと(笑)その生活からキッパリ足を洗いました。この自由にあるがままに生きた6年間に自我が芽生え、僕にとって貴重な時間だと感じています」 
 『他人の釜の飯を食いたい』と地元企業でアルバイトをし、1年後に入社。同社は製缶・旋盤加工・機械メンテナンス・機械据付調整
等を社業とし、設計から製作までの一貫生産は、その技術力、丁寧な仕事に定評が高い。一人息子(姉2人)だが、後継者という意識は全くなく、職人さんの下で働くことが楽しく、父親には一生社長でいて欲しいと願った。その思いが一変したのは青年部の存在だった。家業に就き、中学時代の親友から『青年部に入らない?』と年に1回誘われ続けた。最初は町工場のような規模の企業が入る団体ではない!2年目には、面白い団体かもしれない・と、心境が変化し、3代目として継ぐことを決意した35歳で入会した。最初の誘いから8年後のことだった。会合等の出欠の返事は誰よりも速く、頼まれた仕事はより短時間で仕上げることを決心し、自らを律してきた。
 「怠け者で、忘れやすいので、そう決めました。そんな僕を使いやすい奴と思われたようで、2年目に委員長をやらないかという話が飛び込んできました。『挑戦しない経営者は魅力がない』という言葉に背中を押されて、委員長を受けました。委員長の明確な自覚もなく経験もない僕は、委員会を上手く回せず迷惑をかけっぱなしでしたので、失敗は2度としない、依頼された役を全て引き受けようと決意しました。そのような気持ちになったのは『認められたい』と言う気持ちが強かったように感じています。職人気質の父は口数も少なく、僕は父と意志の疎通が上手く出来なかった、でも青年部では認めてくれる。それが嬉しかったですね。僕にも色々なチャンスをくれて、上手く育てていただいた。そういう先輩やメンバーとの出会いがありました。今度は次代にその想いを届けようと会長に就くことを決心しました」 
 会長を支える専務理事を2度経験し、得た課題も、『基本方針』に反映させた。専務理事の仕事は多岐に亘り、メンバー・会議所本体とのパイプ役、青年部内の改革等であり、その改革の一つが令和3年度から採用された会員の50歳定年だった。役職の重要性や労力の
大変さを痛感し、組織の充実を図り、メンバー同志・会議所本体とのつながりを強固にするため、専務理事を支える常務理事のポストを新設した。同時に青年部の運営基本方針と並んだ綱領に『国際人としての教養を高めよう』が謳われている。それに準じ、国際人としての視野を広げるための第一歩として、『市民交流委員会』を設立し、新たな国際交流事業への挑戦を試みる。
 「楽しみ、充実した委員会活動を経験して欲しいと思っています。あの講師を呼びたいから、こういう事業ではなく、課題を解消するためには、こういうゴールがあるというストーリーを楽しんでいただきたいと思っています。青年部活動は、問題点に対して対策を講じる社業と同じです。また、今は簡単に物事を調べることが出来、忙しさにかまけて、ついつい、いつも通りでと思いがちになってしまいます。僕自身もそうで、考えたり、勉強することを止めてしまうこともあります。それでは進展がありません。学び俯瞰して見ることで頭は柔らかくなり、新しい何かが生まれると確信しています。委員会が人を育てるという青年部設立の原点に返り、全メンバーの事業所に繁栄してもらいたいと思っています。青年部、社業、地域のいずれもが発展しなければ、いずれかの発展はありません」
 前述したように、青年部活動によって多様な刺激を受け成長してきた。何よりも『挑戦する』ことを大事にしてきた。入会前は面倒なことはやらない、頭ごなしに否定する、俯瞰して見ることはしない、挑戦しない、そんな自身であったと振り返る。だから今、会長としての決意は以前の自分を振り返り、かつての自分と同じような道は歩かないで欲しいという想いからの言葉である。そして会長の使命として、発足60周年を目前に控えた歴史に敬意を払いつつ、先人に負けぬ情熱を持って時代にあった形で試行錯誤と検証を繰り返し、全ての仲間と共に青年部を作り上げていくことを誓う。 
 「出来ることをしての成功は、意味があるでしょうか?社業であれば良いかもしれませんが、青年部では挑戦し続けて欲しいと思っています。挑戦して失敗しても、そこから生まれるものはあるはずです。その気持ちから、令和5年度スローガンは『トライアル・アンド・エラー~確かなつみ上げを次代へ~』です。余談ですか、妻の名前は『なつみ』です。遊び心と妻への愛情を盛り込んだスローガンで、僕の青年部会長とし
ての挑戦が始まりました」

●ちょっと一息●
 趣味は暴飲暴食と言っても良いほど、食べて飲むのが好きでアルコールのある場所は大好きです(笑)。青年部活動後の懇親会は皆勤賞で、二次会、3次会までお付き合いしています。とは言っても酒の味がしない水のような酒が好きで、アルコール好きというより、宴席が好きですね。一時、懇親会参加のために青年部に入ったのかなと思ったほどです(笑)。
 住んでいる成岩4区の祭りは幼稚園の年長さんくらいからやっています。今まで色々な人にお世話になり、今は子どもたちに楽しんでもらえるような機会を作る世代になりました。人の人生は『恩送り』と実感しています。 

1980年半田市生まれ、在住。2000年名古屋学院大学経営経済学部中退。07年家業、(有)鈴木製作所に入社し19年に現職。2015年青年部入会。16年サンタクロース委員会委員長、その後副会長や専務理事を経て、令和5年度青年部会長。 



プラス思考で目標を持って

2023年3月30日(木)

東邦ガスネットワーク株式会社 広域導管部 次長 法元 智至氏

1964年名古屋市生まれ、日進市在住。87年立命館大学卒業。同年東邦ガス入社。5年間の選手生活を終えリビング営業部、東邦インベストメントサービス㈱出向(現東邦総合サービス)、人事部(硬式野球部監督)、瀬戸営業所長、東海営業所長、三重支社長付等を経て、2022年現職。当所議員。  

 氏を語る時、その野球人生をおいて語ることは不可能であろう。プロ野球選手のご子息は、(父君は法元英明氏/元中日ドラゴンズ選手、同2軍監督、同スカウト)生まれて間もない頃、当時後楽園球場で行われた巨人対中日戦でセンターを守っていた父英明氏が王選手の右中間の打球をフェンスへ頭部激突しながら好捕。しかし丸二日意識不明になった話を聞き(事なきを得たが)、「野球は怖いからぼくはやらない!」と幼少時言っていたようだが、近くの公園での遊びの野球に夢中になったのがきっかけで中学から本格的に始めた。  
 「家に飾ってあった甲子園の大観衆でプレーする父の高校時代の写真を見て、ぼくもあの聖地に行きたい!といつしか強く思うようになりました。高校は甲子園常連校よりも常連校を倒して甲子園に出たい!長い物に巻かれるのが嫌い、弱者が強い者を倒すことが私のロマン。愛知高校へ入学して甲子園に出ることを目指しました」   
 2学年先輩と1学年後輩(元中日の彦野利勝選手ら)は甲子園の土を踏んだが、氏の世代は出場という夢はあと一歩叶わなかった(同学年には名古屋電気高校(現愛工大名電)の工藤公康選手、大府高校の槙原寛己選手らがいた)。そして、甲子園に行けなかった悔しさから、大学野球でもうひと花咲かせたいと、立命館大学に入学した。
 「3年間はBチームで鳴かず飛ばず、大学ラストイヤーにやっとレギュラー獲得。1986年の関西学生野球春季リーグ戦では、甲子園出場のスタープレーヤーが率いる他の大学を押し退け(1学年後輩には元ヤクルトの古田敦也選手がいた)大学史上初のリーグ春秋連覇を成し遂げ、大学野球の聖地である明治神宮球場に春秋連続出場しました。リーグのベストナインのタイトル受賞や関西学生選抜チームの一員として台湾遠征メンバーに選出されるなどの活躍を評価され、翌年野球で東邦ガスに入社しました」  
 それまで東邦ガス硬式野球部は全国大会には無縁のチーム。都市対抗は戦前から出場なし。あくまで社業重視で特別、野球に力を入れていない会社であった。5年間の選手時代は、全国舞台に出場する機会もなく達成感もないまま引退。社業専念となり3年後再びコーチ、退任後8年間社業専念後に監督就任と指導者含め計10年ほど野球に真剣に向き合ってきた。2003年、61年ぶりに都市対抗野球大会に出場時は一社員としてスタンドで選 手の活躍を見守ったが、社命により2004年の7月に監督として現場へ復帰。アマチュア野球の最高峰の大会である都市対抗野球大会に就任1年目で出場を果たし、翌年には社会人野球日本選手権大会へ創部以来の初出場へ導いた。野球と社業との間を行き来するのは苦難もあったが、与えられた場所で頑張ってきただけと振り返る。  
 「仕事が分かりだした時に野球に戻れということもありましたが、社業専念の経験が指導者として必ず役立つとお受けしました。チーフ、課長と責任のある役職を務めた経験を通して人の力を最大限発揮させることや、埋もれている人が考え方一つで組織の力となることなど学びました。もともとうまくいかないと弱気で悲観的思考になりがちだった私は、いつしかプラス思考が醸成されました。会社で仕事を叩き込まれ、会社が私を作り、私を変えてくれたのでしょうね。そういった職場での経験、具体的には不可能を可能にすることを求められるのは当たり前、無理と判断し逃げてしまえば、その時点でゲームセット!勝つためには失敗を恐れずに前に出続けるしかない!だめならやり返すだけだ!という強い信念を身に着けたことが監督時代、全国大会出場経験のほとんどないチームを全国の舞台へ導けたと思っています。本当は日本一を目標にしていましたから不完全燃焼ですがね。(笑)」
 昨年4月1日、同社はガス事業法により分社化し、東邦ガスの一般ガス導管事業等を承継し設立され、現職に就いた。社名は導管網を意味する『ネットワーク』とし、新たな仕組み作りを担う。営業畑を歩き様々な地域の現場を熟知している氏に、その責務が任され奮闘する毎日が始まった。  
 「東邦ガスは昨年創立100周年を迎え、先人が築いてきたお客様や協力会社との信頼関係があります。それをより強固にするのが私の役割だと思っています。新しいことを行おうとするとスムーズに進まないことはありますが、そこからどうするか?それが仕事の基本だと考えています。できないと結論付けるのはできるだけ遅く、最善の努力をしているか?全力を出し切っていないのではないか?自身に常に問いかけ粘ってしぶとく取り組めば、多少なりとも結果は変わってくると思っています。仕事も野球と一緒で、簡単に諦めないこと。目標を目指して向かって行くことが大切だと思っています。後世に引き継げられる仕事をしていきたいと思っています」
 野球選手を引退して間もない頃、全てが思うようにならない時があり、ちらっと退職も考えたことがあった。悩んだ時、尊敬し兄とも慕う牛島和彦氏(浪商-中日-千葉ロッテ-横浜元監督)にこう言われた。『辞めたいなら辞めればいいよ。でもな、辞めますと言って、会社の偉い人に引き留められるか?問題はそこや!どうぞお辞めくださいと言われないか?引きとめられるくらい大きな仕事して辞めたら次はあるけど今の自分はすんなりどうぞ!かもしれん。それはカッコ悪いな』と。その一言で踏みとどまった。以後、しっかり足跡を残し、辞める時はカッコよくと決心した。気づいたら1年後に定年を迎え、一区切りの年となる。

 
ちょっと一息
東邦ガス野球部の監督を退任したあと、長男が中学硬式野球チーム『SASUKE名古屋ヤング』で野球を始め、その時から今でも休日はコーチとして指導をしています。就任当時は弱小チームでしたが、2019年夏には全国大会で優勝しました。子どもたちの将来が甲子園やその先の野球人生で活躍することはうれしいことです。しかし野球が上手ければそれでいいのではなく、野球を一生懸命に頑張ったことが将来の素晴らしい人生に繋がってくれることが最も大事だと考えています。私は野球をして来たからこそ今がありますが、野球が全てではない。野球を通じて学んだことが大事なことで人としてしっかり生きていってほしい。そのことを子どもたちには伝えています。 
 現役選手を引退した数十年前、暴飲暴食を繰り返し、もう引退したんだから運動なんかするのはうんざり、階段を使わず、50m先の自販機まで車で行く始末でした(笑)。その結果3年で20kg太り、30代前半で無呼吸症候群、息も途切れ死にそうになり、それをきっかけに自宅でエアロバイクを始めました。結果はてきめんで1年で13kg減量成功。あの時エアロバイクを始めてなければ今頃生きていたかどうかもわかりません(笑)飲み食いが大好きなので油断すれば直ぐに増量してしまいます。今もエアロバイクで体重維持と老化防止に努めています。余談ですが、今年明け早々、娘が出産しおじいちゃん1年生になりました。もう少し長生きしないといけませんので(笑)。



地産地消で地域発展を

2023年1月30日(月)

半田商工会議所副会頭 知多信用金庫 理事長 間瀬 朱実氏

 金融機関は午後3時で閉店する、早く帰れるだろうと入庫した。その期待は当たり前のように外れ、当時は残業続きで大晦日まで仕事という激務の連続だった。入庫して38年、昨年6月の知多信用金庫総代会で理事長に就任した。同金庫のトップ交代は5年ぶり、齋藤前理事長(現会長)は氏を10人の役員の中から選任した折り『当金庫をよくしてくれる、職員のためによく動いてくれるだろう、そういう思いが伝わって来た人』と述べている。この38年は自分を磨き、同金庫のために尽力した年月だった。
 「入庫後は本店営業課(場所は現栄町支店)に配属され、定期積金の集金をするのが主な仕事でした。毎日コツコツとやれば結果は出る、積み重ねが大切と信じていますので、他の人がお客様を1回訪問すれば、私は2回、3回と足で稼いできました」
 まさに努力の人だった。入庫志望からは想像出来ない激変を遂げたのは、大きな二つの出来事から体得したことだった。入庫早々、某事業所オーナーに『期限の利益について述べよ』と問われた。何を言っているか分からず、勉強しなければ答えられないと感じ、自宅で机に向かう日々が始まった。今でもその姿勢を貫き、書物と向き合う。二つ目は結婚してすぐ、緒川支(東浦町)時代にそれを体験した。
 「年が明けての初出勤日、1月4日のことでした。体調を崩した出産間近の妻と連絡が取れず、胸騒ぎがして帰宅すると妻が倒れていて、その日から1ヶ月半くらい看病のため欠勤しました。その事情を知ったお客様は「間瀬くんが可愛そう」と、私が働く支店に定期預金を移して下さるなどして預金額が全店で1番になったほど。多くの方から温かいお気持ちをいただきました。その時から家族は一番大切、家族のために働こう、仕事を頑張ろうと決心しました」
 同僚も氏の担当地区の集金を助け、当時の支店長も休むことを快諾し、周囲の思いやりに包まれての期間だった。職場のチームワークが良く、支店長(榊原康弘当所前会頭)の下、『全店1番の店』を目指して、全職員が前を向いた。夜中の11時にもお客様の家を訪問することも当たり前で、誰もが一心に働いた。その当時の同僚たちは今では同金庫の役員に何人かはなり、現職となった氏の相談相手でもあり、良き仲間でもあるようだ。
 「辛いことが沢山あったと思いますが、それを忘れてしまうほど楽しいことがいっぱいありました。正月には榊原支店長の家に行き、酒を飲みながら麻雀をし、仕事も楽しかったですね。資格取得を奨励されていましたので、銀行業務検定試験、ファイナンシャルプランナー等は取得しましたが、金庫のためと昇進思考はなく無欲で働きました。支店長時代は、部下が将来を描けるような金庫にするために、部下との会話を大切にし、汗をかき、知恵を絞ってきました」
 同時に『あなた』と呼ぶより『名前』で呼ぶことが大切と、常務時代までは全職員630名の名前を把握していた。それも部下を思う気持ちの表れであろう。理事長就任は60歳を迎えた時だった。県内15信用金庫中で同い年の理事長は3名。若き理事長としての期待は大きい。同金庫が目指す『全員営業体制』の実現に取り組んだ。顧客先を回る営業マンだけでなく、店頭、後ろに控える事務職、全職員がお客様を気持ちよくお迎えし、お帰りいただくことが一番の営業であると語る。そのために挨拶の励行を図り、同時に報告、連絡、相談の重要性も説く。そして公序良俗に反する行動はせず、人格を高め爽やかであれと職員に望む。昨年10月には5年後に迎える創立100周年に向けて委員会を立ち上げ、地元になくてはならない信用金庫となる5年間とすることを誓った。
 「face to faceの接点を充分に活かしながら、時代に応じた機械化・IT化で生産性・効率性を上げるために昨年9月にデジタルチームを新設し、相続対応も視野に入れました。また知多半島においても重要課題であるカーボンニュートラルの勉強会を始めました。課題山積の中でのスタートですが、色々な方との出会いを楽しみながら情報収集をしていこうと思っています。出来ることがあれば何でも手がけていこうと思います。また、私は地元亀崎で生まれ育ち、地元への熱い想いがあります。地元の皆さんと一緒に歴史・文化等を含めた『地産地消』を考えながら、地元発展に貢献したいと考えています。当金庫建設時も全て地元の方々にお世話になってきました」
 この38年間、『お・い・あ・く・ま』を戒めとして心に記してきた。『世界の盗塁王』と称された元プロ野球選手の福本豊氏の人生訓であり、『おこるな、いばるな、あせるな、くさるな、まけるな』の頭文字から抜粋した言葉である。楽しいことがいっぱいで、辛いことは忘れてしまったと
語るが、『おいあくま』を密かに心に刻むほど、様々な場面を経験し克服して、楽しさに変えてきたのかもしれない。まさに努力の人であり、決心した道を歩み続ける人である。

●ちょっと一息●
半田商工会議所副会頭の話をいただいたのは、当金庫の理事長に就任してすぐのことでした。荷の重さに躊躇しましたが、他の役員と相談の上、その重責をお引き受けすることにしました。中埜・水野両副会頭にお教えいただきながら、松石会頭の黒子となり務めていきたいと考えています。地元金融機関の使命として、半田発展のための雇用創出、新
規事業者の起業を応援していきたいと思っています。
 私が生きていく上で家族の存在は絶対です。理解ある夫、子煩悩な父親として過ごしてきたつもりです。行動は家族単位、土曜日は妻のお供で買い物、娘3人からは除け者にされることなく(笑)、いつも誘われていました。スポンサー目的かもしれませんね(笑)。妻の誕生日は忘れても、私には娘たちからプレゼントが届いていました。それは自慢です(笑)。今は孫と一緒に過ごすのが1番の楽しみで、半月に満たない孫をお風呂に入れるのも上手になりました(笑)。

1961年半田市亀崎生まれ、在住。84年愛知学院大学商学部商学科卒業。同年知多信用金庫入庫。本店営業課でスタートを切り、横須賀支店長、本店営業部長、営業統括部長、常務理事、専務理事等を経て2022年現職。2019年当所金融部会長、22年当所副会頭就任。




会議所創立の原点に返る!

2022年12月27日(火)

半田商工会議所第16代会頭 (株)マツイシ楽器店・名曲堂楽器(株)代表取締役社長 松石 奉之氏

30年ほど前に当所青年部会長を経験した後、議員に就任した。過去、その例はなく、『初めてづくし』は、ここから始まった。以後、副会頭(二期)を経て、今年11月からスタートした新体制の舵取りを担う第16代会頭に選任された。若干63歳。若き新会頭は今までの人生を、時には苦しみながらも、軽やかに楽しく自分らしく生きてきた。小走りにその道程を振り返ってみよう。家業を興した父君、松石正也氏からその幕は開けられた。
 
 「ギターが大好きだった父が、常滑から半田の縁戚者の模型店に勤めたことが、今につながっています。当時の模型店は小学校に粘土細工を納めていて、そこから発想を得て楽器を小中学校に納品することを思いついたようです。常滑で店舗を持たず電話1本引いて、商いを始めたのは1952年でした。自転車で名古屋まで仕入れに行き、時には美浜まで商品(カスタネット、リコーダー等)を届ける。主な交通手段が自転車で、大変な労力だったと想像を巡らします」
 知多半島で初めてピアノを受注したのは豊丘小学校で、ヤマハがある浜松駅から国鉄(現JR)半田駅に運ばれ、そこからトラックで現地まで届けた。村あげての歓待を受け、音楽を届ける楽しさ、やりがいを存分に味わったようだ。1958年に半田に進出し、奉之氏が生まれた59年に、知多半島で最初の『ヤマハ音楽教室半田会場』をスター
トさせ、以降、知多半島各地に音楽教室を開設した。
 「店舗の2階が自宅で、音楽と共に育ちました。4、5歳の頃にオルガン教室に通い3回目のレッスンでやめました。その後、ピアノ、エレクトーン教室にも通いましたが、いずれも挫折しました。エレクトーンは3 年間やりましたが、私がエレクトーンの前に座ると、まずため息をつくんですね。それを見た先生から「かわいそうだからやめさせてあげてください」とクビを言い渡されました(笑)。楽器店の子どもだから、やらなければいけないというような押し付けられ感が嫌だったんですね」 
 自ら選んだ楽器は父君が好きだったギターだった。中学からギターにハマり、高校時代にはバンド(ベースギター担当)を組み、同社主催の『高校生バンド合戦』(1972年より始まる。以来、若者層を中心としたバンドコンサートを開催)に出場した。優勝候補だったようだが父君から「息子を優勝させる訳にはいかない」と言われ、「グレてやる!」と息巻いたと笑う。高校時代はバンカラで通し、学校祭で応援団長としてクラスを引っ張った。まさに学園ドラマを地でいくような、伸び伸びと愉快な時代だったようだ。
 「勉強が大嫌いだったので、遊んでばかり。東京の大学に行こうと受験し、その時におたふく風邪に罹ってしまい、言い訳になってしまいますね、見事全部不合格。滑り止めの大学に入りました。入ってもマルクス、レーニンなんて何も分からず面白くない。またまた楽しく遊んでいました。こんなめちゃくちゃなことばかりしていたのですが、面白いことに父は私に好き放題やらせてくれていました。そんな私も就職を考える頃になり、シェフになろうと思いました。でも修業もきつそうだし、大企業への就職も難しい。父が商売をしているのだから、私だって出来るだろう。跡を継ごうと、後継者枠でヤマハに入社しました。同期は優秀な人ばかりで、気後れしながら社会人としての毎日が始まりました」
 その頃には楽器購入のための積立制度も出来、その契約を取るための飛び込み営業が研修時代の日課だった。一日200件以上を回ることを課せられ、精神力を試され足を棒にした。「かわいそうだね、付き合ってあげるね」と一生懸命さに打たれて、契約を交わしてくれたこともあった。とにかく必死だった。その熱意がカタチとして表れ、全国3 位の成績を収めた。配属された横浜支店では広いフロア全体を任さ
れ、3つの教室の運営、エレクトーン販売(当時は花のエレクトーンと言われ、エレクトーンが人気だった)と多忙な日々を送った。
 「部下が5、6人とアルバイトスタッフと一緒に、イベントの企画や営業をしていました。営業は凄く頑張っていて、買って欲しいがために玄関先で土下座したこともありました。買ってもらってそのお宅から出てきたら、『何で土下座しなくてはいけないのか』と悔しくて涙が出てきました。色々学んだことも多く、メーカー直営店なので、都会と田舎の商売の違いを肌で感じることが出来ました。一番良かったのは人脈が広がったことですね。今では同期が役員になる年齢になって、現在のヤマハ本体の社長は同期です。そんな様々な出来事と色々な人との出会いが、今の私を作ってくれました」
 いつも一生懸命で、真剣に課題に向き合い常に業績を残した。その裏には何の秘策があるかと問うと、『人との付き合いが良くて、付き合いを大事にしてきました』とサラリとした返事が返ってきた。その生まれ持った資質は両親からの大きな贈り物であり、自らの努力に他ならないだろう。後継者枠採用者は3年という雇用期間を経て、半田に帰ってきたのは25歳の時だった。企業人としての第一歩がスタートした。


後継者として仕事を始めた頃、楽器業界は右肩下りだった。ショップ長として最初の取り組みは、『売れる』ことに慣れてしまった従業員の意識改革だった。『息子が帰ってきて、何かやり始めたらしい』という声も届いていたようだが、現状を見つめ、対策を試み、時代に適応する体制が整った。後、新店舗を任せられ、店舗設計から採算計画、組織作り等を図ったが、目標を達成することは前途多難な時代だった。
 「父は病気がちで、会社も不調、経験も浅い私は八方塞がりの状況に追い込まれました。そんな時に手を差し伸べてくれたのが地元の金融機関でした。青息吐息の中で、大きな転機となったのは2年前、碧南の楽器店のM&Aでした。大きな冒険をするのか思い悩みました
が、会社を維持していくためにマーケットを広げ、経営の効率化を図ることにより利益率を上げていくことを狙いましたが、今も、もがき続けています。厭わないのは体を動かすこと。課題が山積している今、行動するしかないとお盆休み以降、1日も休んでいません」
 社業と向き合いながら、当所青年部、青年会議所、ロータリークラブ、ジュニアブラスバンド、国際交流協会と様々な活動に関わってきた。2005年愛知万博時の、半田市のフレンドシップ相手国のブータンとは関わりが深く、現在もブータンの学校から障害者のためのスロ
ープを作りたいと、半田ロータリークラブに援助を求めてきている。そのお世話役として、手を尽くす毎日である。『頼まれると断れないので』と笑うが、まちのため、未来の子どもたちのために尽力し続けている。当所の青年部に入会したのは29歳。その6年後、1994年・1995年に会長を務めた。
 「一番印象深い思い出は、阪神大震災時に救援物資を届けたことです。震災当日の夜にメンバーに召集をかけ、不足している品を聞くために、西宮市役所に電話し、連絡がついたのは数時間後でした。翌々日に水、トイレットペーパーを持って半田を出発しました。私は現
地に行けなかったのですが、メンバーは一日かけて神戸まで行き、大変な思いをして届けてくれたことに感謝です。当時はサンタクロース事業もあり、面白かったですね。いろいろ勉強会もさせてもらいました。青年部を卒業する頃、父が亡くなり1991年私が職務執行者に
なり、43歳で議員になりました(昨年、日本商工会議所から永年勤続議員20年表彰を受賞)」
 『青年部出身者から議員を!』は、前任の東浦優至青年部会長の悲願だった。その流れを初めて作り、今では青年部出身者が議員として活躍している。その後、副会頭を経て、当所で初めての青年部出身の会頭(全国的にも珍しいケース)としてスタートを切った。



 「今までは、経済界に力を持った立派な方が会頭を務めてみえました。常滑から出てきた新参者で、小さな商店の私で良いのかと悩みましたが、コロナ禍で疲弊している今の経済界には、私のような中小小規模事業所の感覚がお役に立てるならとお引き受けしました。設立発起人総代の竹内彦左衛門氏は明治26年の創設時に『知多郡は20町村あり、西東南が海、鉄道、海運に恵まれ、百貨が集まるこの半田に知多商業会議所(現・半田商工会議所)を作り、皆が共存して商いをしていく』と宣言されています。みんなで地域を盛り上げ、みんなが良くなっていく、会議所のこの原点に立ち返ることが大切ではないかと考えています」
 みんなが良くなっていくことは難題であるが、今、事業所はDX推進、電子帳簿保存法、SDGs、健康経営などの課題を控えている。先ずはそれらを会員事業所に的確に落とし込み、支援をしたい。また、会員企業2,450社(10月現在)を見ているだけでなく、その先にいる人、そこで働く従業員10万人ほど全ての人が幸せになっていくような、事業の実施が重要と語る。榊原康弘前会頭が実施した職域ワクチン接種のように、そこに働く人が、安心して働くことのできる職場環境の提供が必要と言葉を添える。そして会議所で大元になる部会活動に正副会頭が関わり、理解することも大切だと語る。同時に部会運営組織の中に青年部メンバーが所属することによって、活性化の大きな力になりうるだろうと期待する。
 「私自身も体感したことですが、青年部の人たちは、若さ故に失敗もあるかもしれませんが、怖いもの知らずで取り組んでいくパワーを持っています。でも、年を重ねると経験値で発言しがちで、決めつけてしまうことも往々で、そこに新しい発想は生まれません。青年部の若い力を活用したいと思案しています。また、榊原前会頭時代はコロナ禍によって後半は殆ど事業を実施出来ませんでしたが、コロナ禍以前に会頭がなさろうとしていらっしゃった実効性のある事業をぜひ引き継いで
いこうと思っています。例えば地域別会員懇談会や行政や市議会議員との意見交換会など、開催できたらと思っています。文書のやりとりだけではお互いの想いは通じません。膝を付き合わせて、話し合うことが大切だと考えています。私が青年部時代、会頭は遠い存在で雲の上の人でした。でも私は歴代の会頭とはキャラクターが違う、身近な存在です。そういう意味では初めてのタイプかもしれませんね(笑)。積極的に話し合いの場を設けたいと思っています」
 家業に関わる音楽は、時として人々に勇気と希望を与えてきた。東日本大震災時にも、被災後で開かれた慰問コンサートに涙を流し、生きる勇気をもらったという人々の話が、巷で言われていたこともあった。
コロナ禍の中でもしかりである。
 「文化・教養は時として重要なポジションを担うことがあるように感じています。外に目を向ければ、このままいけば日本の経済力は間違いなく低下し、国際社会の中で物を言える日本ではなくなっていく傾向にあると考えています。しかし、日本人が文化・教養を身につけるという方向に向かえば、諸外国の人々も日本の立ち位置をきちんと理解してくれるのではないでしょうか?それは地域も同じことが言え、半田も一定の経済力を維持・拡大しながら、ここに住む人たちの文化・教養度を高く、明るく心豊かに生活できる地域づくりを目指すことも大事にしていきたいと思っています。モノだけではなく、人の心の問題も重要で、音楽や芸術に触れることで癒され、勇気をもらうことは人間が享受できる感覚であると思っています。『心に音楽を まちに文化を』を忘れないようにしたいと思います。音楽に携わる者として、そういう側面からお手伝いできれば嬉しいですね」


いつの世も時代に即した対応が必要で、現在は企業に変化が求められるように、会議所こそ変化の先頭に立って、様々な意識改革を進めていくことが重要な時代に到来したようだ。それにはそこで働く、会議所職員のモチベーションを向上させ、もっと働きやすい職場環境に整えることが大切であり、会議所は中小小規模事業所を引っ張っていく体質に変わっていかなければならないと言う。
 「例えば、就業規則一つとっても一般企業より遅れていないか。働き方という部分では、サービス業的な感覚を持っているかなど、内部からの変革が第一歩と思っています。私たち役員がああしたい、こうしたいと提案しても実際に動くのは職員の皆さんです。私が副会頭になった6年くらい前から、経済力が段々と低下し、加えてコロナ禍となり、特に地域の飲食業は業績が悪化し、このまま手をこまねいていたら廃業に追い込まれます。そういう人たちが元気を取り戻して、商売が出来るような環境づくりを考えていくことが必要なことと思っています。会議所が、地域の商工業者の意見を集約し、政策提言、経営支援、地域振興等の本来の役割を果たしていかないと、中小小規模事業者は頼る所がなくなってしまいます。職員の皆さんのポジションはこれからますます重要になってきます」
 職員が会員と顔を付き合わせて話をする場面を持つことの重要性を説く。例えば『ゲッポウ』配布時に「持続化給付金の申請はできましたか?」「家賃支援給付金に該当しませんか?」等、声をかけ、その人にとって、必要な情報を必要なタイミングで届けるようなシステムを作るべきである。榊原前会頭に倣って、会員が何を求めていて、どうして欲しいのか、生の声を聞く機会が必要と言葉を重ねる。
 
 「永年議員20年表彰をいただいたことはとても嬉しいことでした。それにも増して嬉しかったことは、榊原前会頭と6年間、同じ空間で過ごしたことです。会頭の思考、決断力など間近に拝見し、経営者とはこうあるべきかと学ばせていただきました。会頭と時間を共にしてから、私自身、仕事に取り組む姿勢が変わったように感じ、過去の自分の仕事の仕方は浅はかだったと感じる点もあります。
 不安だらけの中でのスタートですが、榊原前会頭から学んだことを、会頭として会員さんや職員の皆さんに発信していこうと思っています。今回、私は役割として会頭職をお受けしました。最後の決断、方向性は私の役割になります。皆さんのご協力をよろしくお願いします」
 
 半田商工会議所は来年創立130周年を迎える。新会頭の下、 11月1日から新たな歴史に向けてスタートを切った。

●ちょっと一息●

 当社で主催する子どもさんの発表会、プロの演奏会など音楽を聴く機会は多いですね。最近は17日間で700曲ほど聴きました。秋は発表会が多くあり、土・日曜日は知多半島一円、三河地域に出向いています。昨年は1年間で2,642曲聴きましたね。明日も名古屋にジャズライブに行きます。音楽が好きなこともありますが、教室で学ぶ生徒さんたちの状況把握、また、私が会場に顔を出すことによって、講師の先生方のモチベーションが上がれば、社長としての役割も果たせるのではないかと思っています。
 モノづくりが好きで、独学で色々なことをして楽しんでいます。孫の節句のお祝いに粘土で金太郎さんを作ったり、箱を買ってきて粘土で模様を作りペイントしたり、コツコツと楽しみながら作っています。孫にはその都度プレゼントをしています。コロナ禍になって、外出が制限された時にエッグアートを始めました。繊細な作業ですが、こういう時間を過ごしていると頭を空っぽにできますから、リフレッシュにもなります。料理もそうで、たまにハンバーグ、とんかつなど洋食を作り家庭サービスをしています。
 お酒もすごーくいけ、お付き合いは充分できます(笑)。小中学校の同級生だった女房と、晩酌は欠かしません。私のアベレージは缶ビール1/2缶、ワイン1/2本、バーボンはダブルで好きなだけ飲んでます。20年間このペースを崩したことはありません。人間ドックの前日もきちんとこの酒量を守り、いつもの私を診てもらっています(笑)。

Matsuishi Music Group(2022年) 1959年半田市生まれ。82年名古屋学院大学経済学部商学科卒業。同年ヤマハ(株)入社。85年(株)マツイシ楽器店入社。88年当所青年部入会。94・95年青年部会長。1999年(株)
マツイシ楽器店代表取締役社長。2002当所議員。16年副会頭。22年会頭。20年名曲堂楽器株式会社をM&Aにより吸収し Matsuishi Music Groupに改称。(株)花井商会の教室及び楽器部門を事業譲受。半田市在住。