

2023年7月3日(月)
入行当初は口数は少なく、人見知りだったと、笑顔を絶やさず軽快な口調で語る。商いをしていた父君の懐に入り仲良く話す銀行員の姿に憧れ、地元に密着しながら貢献したいと同行に入行した。内勤を経て3年目に渉外担当となり、新規開拓の任務が下った。
「訪問先のインターフォンを押したものの、どう話そうか?自信がなく立ち止まり引き返す日もあり、このまま勤めることが不安でした。最初の勤務地の瀬戸支店は『信用金庫』が地元に根付き、お客様と友達のように接する信金の方を羨ましく見ていました。時は転職率も高いバブル期、私も辞めようと上司に相談したら『楽しいこと、面白い仕事もあるから続けてみなさい』と説得されました。高校・大学時代はラグビーをやり、人とのつながりを大切にしていましたが、いつの間にか人と対等に話すイメージが描けなくなってしまって・・。鍛錬して慣れよう、やるしかないと言い聞かせ、試練の日々(笑)が始まりました」
それぞれの勤務地で自身に叱咤激励しながら働き、2000年に精鋭陣が勤務する異色の店舗、大阪支店への異動になった。そこで働くことに躊躇したが、赴任後は見るもの聞くもの新鮮で触発されることが多く、水を得た魚のようだった。名古屋銀行という社名は所在が明確であり、訪問先に安心感を与えた。
「大阪は名古屋と比べると何十倍もの企業があり、有名企業も多くあります。取引を始めるのは難しいかもしれないが、大阪に来た記念に(笑)、大企業の門を叩きました。企業の規模に関係なく商談するのは1対1であり、様々な業種を訪れれば広く学ぶことも出来、色々な情報もいただけました。度胸が付き、どんな会社へも飛び込みで行けるようになり、いつの間にか性格が変わったように思います。『やらされている』から、『考えてやらなければ成長はない』と実感するようになったのも、この大阪時代からです。『地位は人を作る』という言葉に納得したのも、この時期でした」
仲間からも大いに触発された。一人一人が個人事業主のような熾烈な競争を繰り広げる職場であったが、営業成績を上げるという同じ目標に向かって進んだ。出始めたWindows95にも挑戦し、仲間の話し方、接し方を見本とした。そして営業手腕に王道はなく、自身のやり方が大切であり、『モノを売ることは人を売ること』という想いに到達した。本来持ち合わせていた『笑顔』は、初対面のお客様にも、好印象を与えたようで、大きな武器となった。
「以後、愛知県内の色々な支店や本店に勤務し、2010年に島田支店の支店長になりました。私の入行当時は多くの行員の最終目標は支店長でした。私もそうでしたので、目標を達成した時は嬉しかったのですが、今は世の中の考え方が少しずつ変わってきているのではないかと思っています。預かり資産、相続相談、法人業務など、その道に特化したスペシャリストの道を最終目標とすることも、銀行員としての一つの生き方だと思っています」
2022年8月、支店長として6店舗目の半田支店に赴任した。働きやすい職場環境を作ることを第一とし、行員満足度を上げることが、ひいてはお客様のためになると断言する。業界を取り巻く環境や商品は、常に新しい時代の対応が求められている昨今である。一緒にゴルフをしたり酒を飲めばお客様の懐に入れた時代もあったようだが、今はお客様の求めている情報を的確に提供することが最たる仕事になっているようだ。以前は資格取得のための勉強、今は情報提供のための勉強と、勉強一つを取っても大きな差異が生じている。学びが仕事と直結し、気の抜けない時間を過ごさざるを得ない状況の中で、行員満足度を高めることの課題も多い。
「電子マネーやキャッシュレス時代になり、いずれかは対面での仕事はなくなるかもしれませんが、最終的には人と人とのつながりが大切で、以前より感じている『モノを売ることは人を売ること』に尽きると思っています。ただ、若者のコミュ二ケーション手段がSNSやブログなどが主流となっているためか、顔を合わせての言葉でのやりとりは苦手かなと感じることはあります。若い行員に近づきたいと1歩歩み寄ると、2歩後退されている(笑)、と感じてしまうことはあります。世代間を埋める特効薬は見つからず、色々と模索中です」
若者の離職率も高い今、かつての自分が辞めようと思った時の姿を重ねる。その時に上司からかけられた言葉『名古屋銀行の仕事は楽しいよ。面白いよ』そういう想いを持ってもらえるような人材育成をすることが『最後の恩返し』であり、支店長の使命であると語る。振り返れば新入社員の頃、血気盛んだった頃、色々な悩みや苦しみ、愚痴をこぼす日もあった。だが入行36年目を迎えた今思うのは、口数は少なく、人見知りで、自信も持てなかった氏を、社会人として育ててくれた同行には感謝の念が尽きないと言う。
名古屋銀行を愛する人の真の言葉であろう。
●ちょっと一息●
「家内の実家、常滑市に住んでいます。最初は潮の香りが気になりましたが、今ではすっかり慣れ、町代をやらせていただき祭りの打ち上げにも参加し、住めば都という言葉を実感しています。電車での通勤時間1時間をフルに楽しんで、途中下車してはあちこちで飲み歩いていました。名古屋銀行は何かと理由を見つけて飲む文化があって(笑)、どっぷりとその中に浸かって楽しんでいました。今は飲むと翌朝は起きるのが辛いと感じることがありますが、飲んだら酔っ払わないといけないと思って(笑)、今日も頑張っています(笑)。
1歳になった孫がいます。男の人に懐かない子だったのですが、最近私と二人でいても泣かなくなったので、だんだん可愛くなって来ました(笑)。6月生まれの孫と私、一緒に誕生日祝いをしました。57歳違いの仲良しの二人です(笑)」
1965年名古屋市生まれ、常滑市在住。88年愛知大学経済学部卒業。同年名古屋銀行に入行し瀬戸支店勤務。93年小牧支店、2000年大阪支店、中村支店課長、守山支店副支店長、本部営業統括部、島田・蟹江・枇杷島通・刈谷・津島支店長、本部法人営業部を経て、22年現職。当所議員。
2023年7月3日(月)
今、こうしてここで働いている。それが一番の喜びであり、楽しみです。ここに辿り着くまで色んなことがありました。徳島の大学の教育学部で学んでいるうち、外国の人たちと関わる仕事をしたいと夢みて、「日本語教師になろう!」と考えるようになりました。で
も、「それでは食べていけない」という現実を知り、当時日本で外国籍の子どもが一番多く住んでいた愛知県で教師の道に進みました。ですが7年ほど勤めた時に「夢はどうなったの?このままでいいの?」と思ってしまったんですね。それで勢いで留学をしました。そのときはベトナム語を話す人も少なく、日本人がベトナム語喋ってたらなんか面白そう、食べ物も美味しいし・・とベトナムにいきました。
調子よくベトナム語を学んでいたところ、コロナ禍に見舞われ緊急帰国しました。言葉だけでなく、人柄も国もまるごと好きになったベトナム。せっかく勉強してベトナム語を身につけたんだからと、役所で通訳などをしていたのですが、やっぱりどうしてもベトナムに行きたくて、何とか渡航した途端、またしてもコロナ禍の影響で立ち行かなくなってしまいました。ロックダウンで外出も禁じられるベトナムの街。外国の地で生きるということの意味を考えさせられた出来事でした。帰国を余儀なくされる中、日本でベトナム語を使う仕事をインターネットで探す日々でした。ただ、「ベトナム語を話す日本人が少ない」ということが裏目に出てしまい、ほとんどの会社では面接すら通らず…。そんな時に『ベトナム語を話す日本人なんて見たことないから面白そう』という当社に面接をしていただきました。面接官だった今の上司には感謝です。私の恩人です。その面接日が今思えば、人生のターニングポイントでした。
ここに入社してまだ数年ですが、『私たちは、「いろいろなハ・タ・ラ・ク」を通して、互いを認め合い、人として成長し、自己実現を目指します』『私たちは、素直な心で対応し、豊かな創造性で、広く、永く、発展していきます』という経営理念の本当の意味について、少しずつ嚙みしめるようになってきました。弊社は人材派遣、海外からの特定技能の方や技能実習生のお世話、飲食業・介護施設の運営、求人媒体「専門生ナビ」の発行…と仕事は多岐にわたっていますが、根本にあるのは『ひと』です。スキルは経験でカバー出来ますが、一緒に働く人とはパートナーでありたいと思っています。この会社が「あなたがいてくれてうれしい」とお互いを認め合い、働く人の自己実現をサポートできる存在でありたいと思っています。
経営理念に『広く』という言葉があるように、日本のみならず、東南アジアをはじめとした外国人の方の採用も積極的に行っています。外国の方は初めて来日される方も多く、そんな時には安全に安心して生活していただくために物心両面の支援が必要です。彼らが働く現場に顔を出して世間話をしに行ったり、一緒にご飯を食べたりすることも多いです。通訳、としてではなく、時には友達のように、素直な心で大笑いしたり一緒に悩んだりすることで、私という人間を知っていただくよう心がけています。
経営理念「いろいろな『ハ・タ・ラ・ク』」「豊かな創造性」のキーワードのもと、やってみよう!と立ち上げた新規事業が『専門生ナビ』の創刊(29社掲載、県下160校の専門学校に配布、年1回発行)です。「求人票だけでは見えてこない、本当の企業らしさをアピールできる媒体をつくりたい」という想いのもと、愛知県内の人材を永く育てて伸ばしたい素晴らしい会社と、夢に向かって一生懸命な専門学生をつなげる媒体として、取材も編集も私たちでゼロから制作をはじめました。全くの未経験な分野だったこともあり『産みの苦しみ』を鮮烈に味わいましたが、2022年10月にプレ号を発行しました。就活の時期とズレてしまったなあと心配したのですが、昨年度、会社合同説明会も3回開催しました。このプレ号の配布・合同企業説明会から縁があり、掲載企業への内定を得た学生さんがいらっしゃったことが本当に嬉しかったです。私たちの媒体の目指す方向性が間違ってなかったんだ、という安堵と自信、学生さんと企業の新しいスタートに立ち会えた喜びが入り混じったあの感覚のことは、おそらく一生忘れません。
創刊号は6月に発行しました(53社掲載)。学校との結びつきも強くなって、すでに合同説明会の開催も決定しています。掲載企業さんに出向いて取材や撮影を自分たちで行うことで、その企業さんのことをより深く知ることができます。だからこそ1社1社すべてに思い入れがありますし、どの企業さんのことも学生さんに自信をもっておすすめできます。学生さんに自分たちの言葉で企業をアピールできるのも他にはない強みだなと。媒体を通して学生さんが「知らなかった世界」とつながるだけでなく、お客さま同士がつながり、学校からのアイデアがそこに絡まり、新たな事業が始まっていく…そんな場面も何度か見て来ました。媒体が他の側面で化学反応を見せてくれる愉しみも感じています。何と言ってもまだ生まれたばかりの媒体です。地元のお客さまや学生を巻き込んで、試行錯誤しながら大切に育てていきたい、私にとってわが子のような存在です(笑)
人材派遣から媒体作成まで、とにかく色んなことに挑戦させてくれます。わくわくする瞬間に満ちた会社だと思います。何事も中途半端で、それゆえに自信がなくてあれやこれや模索し続けていた私を仲間として受け入れ、少しずつ認めてくださった当社に、少しでも恩返しがしたい一心で仕事に熱中する日々です。『人材の会社で知多半島No.1になること』『一緒に働く人たちがいつか故郷で活躍すること』が私の密かな夢です。私にとって仕事は人生そのもの。生きることは仕事をすること。そんな風に思える魅力的な
仕事に出会えて、なんだかんだラッキーな人生を歩んでいると思っています。周りの皆さんに感謝です。
■半田市岩滑中町4ー73‒1 シャインステイビル NO.2 301号室 ■TEL.26ー7543
2023年6月1日(木)
「人の笑顔が好き」そう語るのは店主の山田晃さん。今回は地元半田で親子2代、50年にわたり地域の皆さんに愛され続ける中華料理屋「一品香」のご紹介。
元々は父親である先代がラーメン屋として開業したのがはじまり。高校卒業後に5年間名古屋の中華料理屋で修行していた晃さんが、父から「一緒にやらないか」と誘われたのがきっかけで中華料理屋としてリニューアルし、現在に至っている。
老舗の二代目である山田さんにオススメの一品を尋ねると、「オススメは全部だけど、まあ強いて言うなら僕とのおしゃべりかな。あと・山田さんじゃなく、マスターで(笑)」と、満面の笑みで茶目っ気たっぷりなご返答を頂く。味に自信がなければなかなか言えないセリフである。筆者も何度かこっそりランチで訪問させて頂いたが、確かに何を食べても絶品。プリプリとしたエビが7尾も入ったエビチリ、表面を香ばしく炙った肉厚のチャーシュー、モチモチとした食感の生地に包まれた肉汁たっぷりの焼売などなど、オススメは全部と言えるのも納得の味である。
そんな腕にも人にも味があるマスターをホールで支えるのは、若干40歳にして大番頭を任されている竹内一将さん。高校時代のアルバイト期間を含め、20年以上一品香でホールを担当しているベテランで、親しみやすい人柄と爽やかな笑顔で接客するだけでなく、一品香の魅力をより多くの人に知ってもらう為、YouTubeチャンネルの開設やホームページのリニューアルなど、多岐に渡る活躍を見せてい
る。マスター曰く、「竹内は一品香のブレーン」とのこと。そして竹内さんもまた「人の笑顔が好き」であり、マスターも自身と同じ気持ちを持つ竹内さんに絶大な信 頼を置いている。この二人を中心とした一品香に来店されるお客さんの顔を見ると、笑顔が絶えない。
今年の4月にリニューアルしたホームページの挨拶欄に、マスターである山田晃さんの熱い思いが書かれている。そこには「人の笑顔が好き、人を笑顔にするのも好き。“食”は人と人を繋ぐ架け橋。驚き・感動・喜び・そして笑顔。笑顔は私とお客様を幸せにする最高のmagic(魔法)。生きる喜び・食べる喜び・美味しいと感じる喜び、その瞬間に成るよう私にお任せください。最高な一日を提供します。」と書かれていた。・・
「自分の作った料理で人を笑顔にしたい」。あなたも命店一品香のmagicで笑顔になってみませんか。(取材:小林裕也)
※命店(食でお客様の健康と命を支えられる店)という想いが込められた言葉
【住所】半田市青山6-23-11
【代表】山田晃
【営業時間】ランチ 11:30~14:15(ラストオーダー13:45)
ディナー 17:00~22:00(ラストオーダー21:00)
【定休日】毎週水曜日
【TEL】22-8328
2023年6月1日(木)
ご縁を大切にしながら道を拓いてきた。就活時(1987年)、同社に勤める隣人から「これから伸びていく会社」と薦められた。同社は2代目にバトンを引き継ぐ時であり、若き社長の補佐役を求めていた。それまでは大手企業を視野に入れていたが、同社の方針や想いに触れ『歯車になるより、自らの手で事を成し遂げたい』と入社を決意した。
「若い会社(1960年創業)で、勢いがあり楽しく仕事ができる雰囲気でした。入社1年間は岡山工場で研修し、配属予定の関西営業
所が閉鎖したため、2年目からは本社(半田)で、社長の鞄持ちとしての日々が始まりました。仕入れ先のトップの方とお会いする機会も多く、『利は元にあり』という言葉通り、仕入れの重要さを実感しました。私は元々営業志望で、営業マンは売り上げが全てと考えていましたが、仕入れの大切さを理解し、『どのような営業マンになりたいか?』と様々なタイプの営業マンと接しながら、考え続けました」
辿り着いた先は、マニュアルに頼りきらず、相手と一緒に悩みながら課題を解決し相手の立場に立った、人間関係に重きを置く営業スタイルだった。社長にお供した4年間は、営業マンとしての心構え(相手の望むことは何か?)、仕事の楽しさなど、ビジネスの基本を学んだ貴重な時間だったと振り返る。岡山・関東営業所で営業マンとして飛び回り、岡山営業所長時代には全営業所売上1位の名古屋営業所を追い抜くことを目標として、その悲願を達成した。
「当社は業務用大型クラフト紙袋の製造・販売を主業務としています。この業界に限ったことではありませんが、同じような製品を作ることはどこの企業でも可能です。そこに品質、価格、そして営業力が加味されてお得意様となっていただけるのではないかと感じています。八方美人的かもしれませんが(笑)、どなたとでも気軽にお付き合いをしてきました。営業マンにとって必要な要素ではないかと思っています。今も各工場に行ったり、営業所の社員に同行しお得意様回りをしますが、動き回ることは私に合っています」
アンテナを張って磨いた会話力とその資質が味方した。生まれ持っての好奇心の旺盛さは、新しい職場、出張、出張の連続の激務もにならなかった。むしろ1ヶ所に長く勤務するより、次々と新しい土地で働くことが性に合っているようで、常に新しい出会いを求めた。知らない土地で仲間やお客様と話し、食べ、飲みながら和気藹々と過ごし、行く先々でのご縁がつながった。まさに人対人の付き合いだった。本社への2度目のご縁が始まったのは2015年。営業部長として着任し、翌年取締役営業本部長、そして昨年6月に現職に就いた。
「前任社長は若く、そのまま続行されると思っていましたので、昨年3月の突然の社長要請に戸惑いながらの就任でした。特に昨年は原材料の高騰により1年に2回の価格転嫁があり厳しい決算結果になりました。そんな中での就任でしたので、全国に挨拶回りに伺った時に、皆さんから『大変な時期に、ご愁傷さま』と言われることも多かったですね(笑)。就任後は前社長の方針を守ることが精一杯で、今振り返ってもこの1年間の記憶がないほどドタバタしていました。今、やっと気持ち的にも落ち着いたような気がしています」
2年目を迎えた今期は営業利益の黒字を第一目標に、営業畑で培ってきた人脈や知識を活かして新規開拓しシェアアップを図る。同時にコンプライアンスの徹底、安全(労災ゼロ)厳守、人材育成、生産面でのロス率の軽減と課題は山積している。
「営業畑を歩いてきて売ることが最優先で、経営や管理部門は門外漢でしたので、今は学ぶことばかりです。課題に追われる今、『経営者は孤独』という言葉が身に染みています。大好きなお酒を飲んでいる時も、仕事上の愚痴は言えませんからね(笑)。若い頃は飲みにいけば、仲間と一緒になって上司の愚痴を言ったりしてストレスを発散していました(笑)。楽しくいい時代でした。ただ私は、悩み続けているのではなく、やるしかないと、その辺りの切り替えは早い方だと思っています。一晩寝たら、心機一転ですね。また、一言の重みも実感しています。今までは多少の失言をしたとしても、背後の社長が支えてくれていました。でも今は私の一言は会社の言葉す。この1年間で、その責任の重さを痛感しました。話し好きの私も、少し無口になったのかもしれません(笑)」
人対人との付き合いを重要視し、自ら働きかけてきた。それは『よそ者だったからかもしれない』と自己分析する。勤務した岡山(大阪から西日本地区)関東営業所(北関東地区)は広域をエリアとし、文化、習慣、風習がそれぞれ大きく異なり、新天地に赴いた時には戸惑いもあっただろう。だからこそ、その土地の違いを積極的に楽しんだ。
「そこに長く住むか住まないかということではなく、その土地に住んでいる間はその時々を楽しく充実した時間にしてきました。よそ者意識を持っていたのでは何も始まりません。自ら人との出会いを求め、こちらから話しかけてきました。そうすると自然にご縁は始まり、つながっていきます。たまたま隣に座った人と仲良くなる。それもご縁だと思い、今を大切に生きていきたいと思っています」
●ちょっと一息●
「本社勤務になってからは単身生活が9年目を迎えました。一人でじっと部屋にいるのが苦手な私は、社内の単身仲間と定期的に旅行に行ったりしていた時期がありました。今はその仲間も散り散りになってしまい、家の近所で一人でブラっと行ける居酒屋を何軒か確保(?)し、飲み仲間も出来ました。『職業不詳の酒好きの親父』として通っていますが、社長就任時に、この『カイギショゲッポウ』で紹介していただき、身元がバレてしまったことがありました(笑)。
岡山に住む家族(夫人、二人の息子さん)の元に帰るのは月に一度ほど。この4月に初孫のお宮参りで岡山に帰り、親の務めを果たしてきました。8年も子どもと離れていると実感が湧かず、おじいちゃんになったと言われても不思議な感じです」
1964年兵庫県尼崎市生まれ、半田市在住。87年関西学院大学社会学部卒業。同年中部紙工(株)に入社し、岡山工場で研修。88年本社購買業務、92年岡山営業所、97年関東営業所営業課長、2001年岡山営業所長、15年本社営業部長、16年取締役営業本部長を経て、22年現職。当所議員。
2023年6月1日(木)
亨右さんと私それぞれが旅行会社と材木店の代表を務め、互いが両社に関わり二刀流です(笑)。20年前に亨右さんが旅行会社『ダイトウツアー』を創業し、私もサラリーマンを辞めて手伝い始め18年になります。4年前に材木店qをしていた父が急逝し、私が『大藤材木店』の6代目を継ぎました。その後コロナ禍になり旅行会社の仕事がなくなり、時間が出来ました。それで材木店の倉庫整理をしていたら、当時使っていたノコギリや、銘木といわれている木が出てきました。父は晩年常々『趣味、道楽、ボランティア』と言い放ち木に生きた人で、趣味で集めた貴重な磨き丸太や床柱も保有していたようです。住宅の洋風化でそういう材木を利用する機会もなくなってしまったので、商品の企画・販売のショップ『DaitoWoodWorks」を立ち上げました。「せっかくの銘木が勿体ないね」と言われることはありますが、使えるモノに変えていけば、身近においていただき、木の良さを知っていただけることにもなると思っています
二人とも木を扱ったことがなく、YouTubeや友人から教えてもらい機械の使い方から勉強しました。最初はトーチやまな板作りから始まり、インテリア、生活雑貨、キャンプ用品などアイテムも少しずつ増えてきました。木は一つとして同じ表情のものはありません。それぞれの良さを活かしたシンプルなデザインを心がけています。昔はまな板として使ったものを今はどう使うかなど、新しい木の使い方を提案しています。私たちの技術も上がってきて(笑)、「自分たちで作っているの?」と聞かれることもありますが、全て私たちの手が掛かっています。
2年くらい前からマルシェやイベントなどにも参加し、出店していると異業種の方達ともお会い出来、情報も入り仕事の幅も広がりました。最近はレーザー彫刻の看板や木に QRコードを彫刻した商品が好評です。商品は通販サイトでも販売しています。亨右さんは細かい作業をキレイにこなしますが、私は大雑把で「こんな感じかな?」と商品イメージを膨らませるなど、それぞれ得意分野が出てきて、新たな発見もあり面白いですね。得意なことは早く上手に出来るので、それに向いた人が担当していますが、嫌なことは押し付けあったりしています(笑)。
互いが会社の責任者なので、最終決定はそれぞれという線引きは出来ていますが、隣り合った両社間を行き来しながら午前は旅行、午後は材木店の仕事ということもあります。旅行と材木、業種は異なっていますが、『良いと思うものをお勧めする』『お客様のニーズにお応えし、個性的なものを提供』というコンセプトを共有しています。私は飛行機に乗ってみたいという想いから旅行会社に勤務し、日本全国、諸外国を周り、『ダイトウツアー』として団体旅行やオーダーメイドの旅行をお受けしています。営業は主に私、コース作り、見積もりなどは主にそのさんが担当し、最初の相談から添乗まで全ての責任を持ってやらせていただいています。今はインターネットで簡単に旅行の申込が出来る時代になりましたが、お客様が本当は何を求めているか?そこを大事にしたいので、お客様とのコミュニケーションを大切にしています。
私も添乗業務にご指名をいただけるようになりました。でもやはり旅行業界に長い経験者の亨右さんの的確な判断力や会話力、出会った頃の走り回っている人という印象通り、フットワークの軽さには敵いません。旅行に関わる人としてピッタリの要素を持っている人ですね。だから仕事が好きで、家族旅行も話題のスポットや気になる旅館やホテルに泊まり、旅行の下見のようです(笑)。
自分の目で見て肌で感じることが重要で、既存のお客様を大切にすることを心がけてきました。「良かったよ。次はどこがお勧め?」と声をかけて下さるリピーターの方も多く嬉しい限りです。義父の知り合いに当社を利用していただいたりして『大藤(ダイトウ)』という名前に助けられているとつくづく感じています。
老舗材木店が時代に合った新しい木の使い方を提案する店として新聞やテレビに紹介されたら、「あの大藤材木さんが新しいことをやり始めたの?お父さんはいい人で、よくお世話になったよ。頑張ってね!」と皆さんから励ましの声をいただきました。父も『大藤』という名前が残ったら嬉しいと言っていましたので、私も少し親孝行をした気分になっています。その名に恥じないような仕事をして行きたいと思っています。
小澤亨右さん そのさん
■武豊町字小迎200 ■72ー8803